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知らない世界を見たい?~「S」hiranai sekai wo 「M」itai?~


私は長所を聞かれたら、「好奇心が旺盛」というタイプである。
なんでも体験したいし、見たことのないものを見たいし、食べたことのないものは食べたい。
いろんな国に行きたいし、様々な国や分野の人と話したいし、知らない世界を見たい。

・・・とか思っていたけど、実際にそういう場面に出くわすと、知らない世界は非常に「怖い」ものだと痛感させられたのである。いかに私が保守的で、慎重であるか―これは単にマイナスの意味だけではなくて―気付かされもしたのである。

私がフリーライターならぬ、”フリ”ライターとして、様々なことに「好奇心を持って」、「いろんな世界の人に出会い、話を聞き」、「自分の力で」何かがしたいとイベントを開催することに決めたのは4月の末。その意思に賛同してくれ、協力をしてくれたのはなんば紅鶴の店長である人生さん。幅広い交友のある人生さんにゲストの手配もお願いすることにした。

その2週間後に「SMクラブのお世話係兼緊縛師の方にお願いできました」とメールが来た。

そこで選択肢は二つあった。
①自分のタレントイメージを考えて、断る
②自分の知らない世界を広げるために、受ける。

私は後者を選んだ。そのとき好奇心が勝ったのだ。
普段の生活では絶対に会うことも話すこともないであろう人。いろんな話が聞けるであろう人。
正直言うと、この時は深く考えていなかった。いい意味でも悪い意味でも使える、得意の「なんとかなる」の精神で。

イベントが近づき、ゲストのことを下調べしておこうと、「SM」をWikipediaで調べ、「緊縛師」の人をググってみて、ゲストの働くお店のHPを見て、その世界を覗いてみた。

「やばいかも・・・」 そう思った。
だけど、まだ、「なんとかなる」とも思えた。

そしてイベント当日。
ゲストに挨拶と打ち合わせに行ったら、なんと、女性だった。勝手に、私は、その方が男性だと思い込んでいた。作務衣を着て、そば職人のような出で立ち。物腰は柔らかく、丁寧で、不安そうな表情の私に「大丈夫ですよ」と言った。
打ち合わせをしたいと申し出たが、「知らない方が面白いでしょ」と返された。
そのセリフに私の好奇心スイッチは作動せず、拭いきれないモヤモヤしたものが胸を覆った。

イベントが始まり、オープニングトークが終わり、いよいよゲストの登場。
ゲストのOさんは自身で用意した出囃子(ゴジラの登場曲)に乗って、スーツケースとお土産を持って出てきた。お土産は「笑っていいとも」スタイルらしい。そんな演出まで考えてきてくれて、自分自身のアイデアの乏しさと余裕のなさに悲しくもなった。

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(緊縛されたクマの人形とお菓子を頂きました)


最初はもちろんゲストの紹介から。しかし紹介するにも何も知らない。ゲスト自ら自己紹介をしてもらう形になった。そのままの流れで、なぜかOさんは私の「色気」について話しだした。Oさんは私のブログを事前にチェックして下さり、私の仕事や人となりを把握して臨んでくれていたのだ。だからもうこの時点で、主導権を握られていたと認めざるを得ない。

「まりおさんって皆さんに表面上の応援はされているようですが、本当に愛されているんでしょうか?」
「健康的な色気はありますけど、果たしてそれだけでいいと思いますか?」
「人に発信するような仕事をしているのだから、女性の、そして人間的な色気が出れば仕事に幅が出てくるはずですよね」
「見てて、聞いてて、この人に惹きつけられるという魅力、そういうものを開発をしていこうではないですか」

もう完全にOさんのペースに飲まれていた。この波に乗るべきか、抗うべきか決めきれなかった。なぜなら私は「色気」に対して苦手意識がある一方で、とても身につけたいとも思っていて、その話にとても興味をそそられたからだ。その筋の雑誌を買って読み漁ったこともあるくらいに。「聞きたい」「知りたい」と思う一方で、イベントのホストである自分が、立ち位置がフワフワして主導権を握られ、思いもよらぬ方向に話を持って行かれていいものかと、頭がぐるぐる回っていた。

もちろんOさんは私のためを思い、そして、SMの世界を少しでも身近に感じてもらおうと話してくれていた。しかし、私は求めていたはずの『知らない世界』を目の前にしながら、纏っているプライドとかイメージを剥がされかけたために、その波に乗っていいものか戸惑ってもいた。

「どうしよう」「どうしたらいい」「どうなるの」・・・
そこに「こうしたい」という意思を見いだせない自分がいた。

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しかしイベントは進めなければならない。まずはOさんがトランクいっぱいに持ってきてくれた道具を紹介してもらうことにした。
最初は乗馬用の鞭である。馬に使うけれど、人間にも使えるそうだ。
「実践をしてみましょう」ということで、お店のスタッフさんに協力してもらい、実際に道具を使ってみることになった。
SMで言うSは「サディズム」加害行動によって快楽を得る嗜好(を持つこと・人)で、Mは「マゾヒズム」苦痛に関して快楽を得る嗜好(を持つこと・人)である。つまりSは鞭で叩く(Oさん)、Mは叩かれる(スタッフさん)。
SとMは好き放題に叩き叩かれればいいかというとそうではなく、叩かれるための姿勢があり、叩くための方法がある。叩かれる方は足を肩幅ほどに開き、膝は軽く曲げ、前傾姿勢になって腕を壁などについて、その腕に頭を入れ、いわゆる受身の姿勢を取る。叩く方は背中の肩甲骨の下から筋肉のつき方を確認し、叩いても支障のないところを探す。そして、相手との距離感(ストローク)の確認も忘れない。いきなり強く叩くのではなく、最初は触る程度でコンディションを確認し、ウォーミングアップのようなレベルから始まり、徐々に力を入れていく。そこには2人のコミュニケーションがあるのだ。

そこで2回目の『知らない世界』への扉が開かれようとしていた。

「やってみます?」

やらないわけにはいかない、と頭では分かっている。30歳も過ぎてそのくらいのことでワーキャー恥ずかしがる年でもないことも分かっている。だが、お客さんからはどう見えるのだろう。楽しんでもらえるのだろうか。不快な思いをさせてしまうことにならないだろうか。やらないほうが面白くないのではなかろうか。そんなことが一瞬にして頭を過るも、結論はひとつ。やるのである。このイベントを決めたのは私なのだから。

まずは鞭を選ぶ段階から。例えば鞭が2本あれば、SはMに対して「どっちがいい?」と聞き、選んでいない方から持って「じゃあ、こっちからね」と始めるのがお決まりだそうだ。「どっちか」ではなく、「どっちからか」なのである。そこはお約束みたいなものであり、二人の立場(主従関係)の確認でもあるように見えた。その後、話の通りに確認作業を行い、コミュニケーションを取りながら、実践してみた。触る・撫でるレベルから始まり、布団たたきの要領でポンポンといったレベルに移る。力を込めて叩くまでは行かずに済んだ。しかし不思議なもので、「これくらいでいいでしょう」と言われると、「もっとできますけど・・・」と言いたくなるから怖い。きっかけはちょっとしたことであって、誰にでも扉は身近にあり、そこに鍵はかかっていないのかもしれない。

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ここは日頃培った演技力を見せるところ?

それからオーダーメイドの鞭も見せてもらった。馬用の鞭とは違い、長さは2m近くあり、赤とベージュの2色の革で細かく編み込まれていた。まだ人を叩いたことがなく馴染んでいないそうだ。どの世界も道具というのは使い込んでこそ、というのがあるのだろう。


Oさんは、やるかどうか聞かれると、いつも躊躇する私にこう言った。
「まずは肯定しないといけない。肯定する、肯定できることで、自分の引き出しになっていくんですよ」

それは「認めることの大切さ」を言いたかったのだと思う。見て、聞いて、肯定した上で、受け入れないという選択肢もあるのだから。知らない、分からない、で否定していては、幅は広がらないということだろう。
極端な話、SMが何たるかを知らなければ(知識として)、DVとの違いを判断することができないかもしれない。パートナーにこれはプレイだと思い込まされて、抵抗できないかもしれない。どこまでがプレイで本物の愛情なのか、どこまで行けば暴力で支配しようとしているだけなのかを。

だからこそ、「知る」ことは何よりも尊いものなのかもしれない。

SMはなにより「信頼」と「コミュニケーション」が必要だそうだ。ただ相手を痛めつけて喜ぶのではない。お互いの満足をより高めるために努力する、工夫する、駆け引きをする、そして演技をする。それは、芝居であり、プロレスであると言える。ロールプレイングゲームのやり方に近いものもあるようだ。決められたセリフもあるし、アドリブを入れることによって結末が変わり、様々な形が見られるのである。何が正解か答えはないし、ゴールもない世界ではあるけれど。

緊縛師でもあるOさんが用意したクライマックスは、もちろんロープ。
雑誌で緊縛を見てキレイと思ったのが始めたきっかけだった。どこで始まって、どのように繋がって、どこで終わるのか、起承転結を見たい・作りたいという性分が今に繋がっているそうだ。

「縛られてみますか?」
私に与えられた『知らない世界』への最後の扉だ。

躊躇した。世間で言う「縛る」というのは亀甲縛りのイメージが強く、そこまでされるのはさすがに無理だと思ったので「手や足だけだったらいいですよ」と返事した。にも関わらずOさんは「軽めにしますから大丈夫ですよ」と私の胸部にするすると縄を回し始めた。

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使ったのは赤のソフトロープ。痛みは少なく、後も残らないため、イベントなどでもよく使うそうだ。今回は服の上からだったので全く痛くなかったが、縛られているという感覚がとにかく恥ずかしかったし、どのように縛られるかの完成形が分からないから怖かった。またお客さんからどのように見えているかも分からず、不安で仕方がなかった。しかし、「ここで聞きたいことを聞いておかないと、取材が終わってしまう!」と焦った私は、縛られながら用意しておいた質問をぶつけたが、取材に使えそうな質問はできなかった。


「こんなもんでしょう」とOさんは言い、ほんの2~3分で緊縛は完成した。


すぐに写真を撮ってもらい、自分の姿を確認しての第一声は、


「あ、カッコイイかも」

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バックショットだけで許してください。前からのショットはイベントに来られた方だけが見ることができました。

映画「トゥームレイダー」で武装したアンジェリーナ・ジョリーのように見えたし、もしくは筋肉矯正ベルトを巻く星飛雄馬のようにも見えた。これは、ファッションとして流行るかもしれないとも思った。イベントなどを行うと、「縛って~」と若い女性に頼まれるそうだが、それも納得も出来る。


SM歴36年のOさんが語るその魅力は、「みんなが知らない世界」だから。
人に隠さなきゃいけないことをコソコソやっているのが面白くて、潜伏やアンダーグラウンドなのが好きだそうだ。人と同じのは嫌で、自分本来の特殊性を伸ばしたいと思ったら、この世界にいたということだろう。

Oさんが私に尋ねた。
「舞台でお客さんの視線を魅了したい、惹きつけたいと思いませんか?お客さんの喜怒哀楽を支配している、コントロールしている快感ってないですか?」
確かに、「ない」と答えたら嘘になる。私自身はお客さんの感情を支配したりコントロールしたりするレベルまでに至っていないが、自分の発信する言葉や芝居で、自分の望んだ反応やそれ以上のもの(望まないものであっても)が返ってきたときはこの上なく快感であることは間違いない。Oさんは、「それのもっとディープなものがSM」だと言う。


ただし、職業としてのSMはまた少し違ってくるそうだ。
決められた時間の中で、女王様やM女は客のために起承転結、すなわちドラマを作り出す。客に「私はあなただけのものですよ」と思い込ませるために芝居をし、経験とテクニックを駆使し、満足させる。客はある意味スポーツと同じ感覚で大きな声を出せるし、(日頃家庭などではできない)絶対的な命令も思う存分出せるわけだ。
日常で抱えたストレスの発散や、SやMの性癖を持つ人にとってはそれを溜め込まずに済むことで、DVや性犯罪を減らすことにもつながると捉えることもできるのではないかと、Oさんは社会的な面からも話をしてくれた。

それは私のイメージを考えての、Oさんの配慮である。知らない世界に躊躇う私に、自分のペースで話を進めていったことも、私に「NO」と言わせない雰囲気を作っていたことも、少し真面目な話を盛り込んでくれたことも、SMの世界で36年生きてきたOさんの愛情と思いやりに溢れたこのイベントの起承転結なのかもしれない。

いや、ただ単に私を困らせて楽しんでいただけかもしれないが・・・。

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途中から「先生」と呼ばせていただきました。



私は、『知らない世界を見た』

そして、その全てではないが、知ることができた。

SMについて書く事は、とてもリスクを感じたし、この記事についてもどのように捉えられるかは分からない。
ただ、SMの世界というのは確実に存在している。また、人によって考え方やその方法も違う。
今回の取材イベントを通して、『知らない世界』を見ることができただけでなく、自分自身の思考と向き合うことができ、『知らない自分』を見ることができたと感じている。
だからこそ、今回は「自分」を主軸に置いて、素直に感じたことを(ドキュメンタリー風に?)記事を書かせてもらった。


伝えることはとても難しい。理解してもらうことはもっと難しい。

「1回目がこれだったら、あとは大丈夫ですよ」とOさんが言ったことは正しいかもしれない。

イベント自体も自分が思い描いていたものとは掛け離れていたし、記事もこんなに書けないと思っていなかった。
フリライターとして1回目がこれで良かったと思えるように、もっともっと精進せねばならない。



「SMクラブ ノーリーズン」 で検索すると、Oさんのお世話するお店のHPが出てきます。
受付のあるお店なので、「おばちゃんおるか~?」と声を掛けると出てきて下さるそうです。

Oさんがたまにいる味園のバー イプソファクト



イベントに来てくださった方は、思い出しながら読んで頂き、比較した上での感想を頂ければ幸いです。
記事だけ読んでくださった方は、意味が分からない・理解できないなどの質問も受け付けます。
もちろん楽しんでいただくだけでも結構ですし、楽しめなくても最後まで読んでいただけたことに感謝します。

あと、冒頭でテーマに上がった「色気」に関して、活かせそうなところはこれから実践していこうと思っています。各々でたかしままりおの色気が出てきたかどうかを確認して頂くようお願いします。



最後までお読み頂き、ありがとうございました。


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お手伝いしてくれたスタッフのヘルくんもありがとうございました!


※次回のイベントは7月1日(水)の予定です



フリライターたかしままりお

売り子の生態


2013年5月29日
セ・パ交流戦
阪神タイガースVS楽天イーグルス@甲子園にて


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どちらも好きだし、でも、どちらも応援していない。

そんな気楽な感覚で試合を見始めた。


やはり最初はビールだ。売り子に頼もう。




・・・彼女は突如現れた。


何の気なしに呼んだビールの売り子に心奪われた。

彼女は初めて会う私にこう言った。


「昨日は悔しい負けでしたからね~今日は勝ってほしいですね!!」



あまりの親しみやすさに「この子は何者だ!?」と写真を撮らせてもらったほどだ。


最初


最初は友人と2人で見ていたが、遅れてもう1人友人が来た時、もう一度同じ売り子から買うことにした。
彼女はさっき注文した私たちを覚えており、そのことにも感謝を述べてくれるあたり、確かな実力を感じた。

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ふと、あることに気付いた。

4位

彼女は4位だった。アイビー3塁側での月間4位の売り上げを上げている売り子だったのだ。

まさかそんな順位をアピールするというシステムがあるとは知らず、こうなったら、もっと上位の子からもビールを注いでほしい、上位である所以は何なのか知りたくてたまらなくなった。


もうそれからは試合はそこそこに順位のバンドを巻いている売り子ばかり探しだした。


次に見つけたのは、1位!!!

1位

顔はとっても整っていて、動きはキビキビ、応対はハキハキとして気持ちが良かった。あまり媚びない感じも良かった。
彼女はここ1年は1位をキープしているそうだ。ただ、今4年生で就職活動中のため勤務日数が少ないようで、5月度の1位は厳しいと言っていた。1位へのこだわりが垣間見えて、思わず応援したくなった。



そして次に見つけたのは、2位。

2位

1位の彼女と同じ大学で同じ学科だそうだ。1位の彼女には到底敵わないと謙遜していたが、おそらく5月度の1位は彼女であろう。就職活動も終了しており、ガンガン働ける状況だからだ。
彼女はどちらかと言うとおっとりしており、常連のお客さんに対してバイバーイと手を振っても許されるくらい愛嬌があった。売り子歴は2年弱で短い方だそうだが、それで2位の座を掴んでいるのは相当なやり手だ。男性の心をガシッと掴む術を身につけており、癒し系No.1の称号を与えられるレベルだった。


そして次に見つけたのは3位。

3位

彼女はどちらかと言うと体育会系だ。とてもパワフルでガッツがある感じが伝わってきた。売り子歴は2年ほど。そのガッツで着実に順位を伸ばしているようだ。ビジュアルで言えば、正直1、2位には劣るが、「1位を目指しています!!」と宣言するあたり、同じ体育会系としてはかなり好感が持てた。


5位を見つけるのには、なかなか苦労した。どうやら下の方のエリアを中心に活動している様子だった。
どうにか見つけて上まで来てもらった。

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彼女は売り子歴3年目。彼女からすれば1、2位は不動らしい。到底敵わないと言う。そして3位の子と仲良しだそうだ。写真を撮らせてと頼むと、少し恥ずかしそうにしながらも対応してくれた。さらに「お姉さんたちの写真を撮りましょうか?」と言ってくれた。上位メンバーほど順位のこだわりがない感じが可愛らしく、この子の人気があるのはそういった点かもしれないと思った。


話を聞くと、アイビー3塁側のエリアに売り子は30人ほどおり、所属の会社がそれぞれ違うようだ。
そしてもちろん、5位までに入るとインセンティブが入る。
上位メンバーは常連のお客さんを持っており、しっかりと顔を覚えているようだった。
何より動きが速い。試合のインターバル(打者が落ちた後に次の打者が出てくるまでの間や攻守交代の時間)には目にも止まらぬ速さで横移動を開始する。どんだけ周辺視が広いんだと思うほどビールを欲しがっている人を見逃さない。


売り子の足元にも注目だ。

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バレーボーラーには堪らない、膝のサポーターをしてるのだ!膝を付いてビールを注ぐため、必需品なのであろう。ミズノのサポーターは私も使っていた。膝サポーターがこんなところにも需要があるなんて、売り子とは何と愛おしいのだ…とさえ思った。



それから、売り子ばかり見ていると、あることにも気付く。
ビール以外の売り子は商品に合わせて色の異なるキャップを被っており、それぞれ順位を表示するバンドを付けている。

チューハイの売り子は黄色のキャップ、ハイボールは赤、黒ビールは黒。

その中で一際売る気の強そうな赤いシュシュをした黒ビールの売り子に着目した。

黒

黒ビール担当は全体で10人ほどおり、エリアに関係なく動き回れるそうだ。
また、担当商品は各所属会社で決められるようで、彼女は最近黒ビール担当になったそうだ。
しかし日によって担当する商品が変わる子もいるそうで、そういった子は順位を狙いにくいと言っていた。
幸い彼女は黒ビール専属だそうで、何でも話してくれるその屈託のなさは10人の中で1位を取るのも容易そうな力量を感じた。


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売り子は楽な仕事ではない。
彼女たちはより多く売るための努力をしている。

ビールと言う戦場で戦うのであれば、それはAKB48に所属するのと同じくらい競争が激しい。
1位の子は間違いなく大島優子だし、2位の子はまゆゆだ。
ビール以外の商品であれば、物によってはご当地アイドルの中で戦うという感じだ。
(決してビール以外が悪いと言っているわけではない。自分の意思で担当を決められない場合がほとんだから)

自分のファンを付け、より多く買ってもらう。その結果が順位として表れる。

上位にいる子たちは上位である理由があり、下位の子はそれを破る実力を付けるか、就職をして卒業していく先輩たちの穴を取るかしかない。

売り子の経験はさぞかし就職活動に役立つだろうなぁ(特に関西圏であれば)と、もう今となっては出来ない売り子に様々な思いを馳せるアラサーの私なのでした。




たかしま まりお

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美談のない箱根ランナー

今回の取材対象は、恩師である。

私がバレーボールにすべてを捧げた高校時代の恩師、博多女子高校バレーボール部の入江利昭監督である。


ただ今回はバレーボールについて書くつもりはない。
タイトルを見て分かるように、「監督」「恩師」と言うワードはない。


私の高校のバレー部の監督は、元箱根ランナーなのだ。

もちろん、高校生の頃は、その偉大さを知りもしない。

私のチームは正月も合宿を行うので、箱根駅伝はいつも移動用のバスで見ていた(見させられていた)。先生の出身は順天堂大学。もちろん名門校だ。順天堂の成績が良くないと(多分当時の思い込みだが)練習が厳しくなるというような影響が出た記憶がある。
先生は箱根駅伝のエピソードとして、「先生が1年生のとき、メンバーに選ばれなかった4年生が涙を流しながらマッサージをしてくれた」という話をよくしていた。お前たちにその気持ちが分かるか、というような説教につながったように覚えている。

とにかく当時は「箱根駅伝」の話題は嫌いだった。


高校を卒業して12年、先生と向かい合って話すことは一度もなかった。
後輩の試合を見に行ったときに挨拶をして、少し話をしたが、改まって話を聞いたのはこの取材が初めてだ。

母校の校舎へ行き、応接室で先生と向かい合って座る。
ワクワクもするし、ドキドキもする。何を話そう、何を聞こう。

私の仕事については、私が載っている新聞記事を見たことがあるようで先生は知っていた。
「結婚の報告かと思った」とも言われたが、先生に“取材として”箱根駅伝についてお話を聞きたいと伝えると

「俺には話せることはないぞ」

と言われ、のっけからバリアを張られたと感じた。きっと箱根を走った人たちはいつも同じような質問をされ、話すのに飽きちゃったんだろう、大したことないと謙遜しているのだろうと思ったので怯まずに返した。

「私は走る男女子部という番組のロケで、箱根路を走りました。本当に過酷で大変でした。長距離を走るようになって箱根ランナーの凄さを知ったんです。今では箱根の大ファンです。だから聞かせて下さい」と。

それでも先生は乗り気ではなかった。「俺は走ることが嫌いだ」とも言った。
そして「お前がイメージしているような美談はないぞ」と言い切った。

そんな様子だったが、先生の歴史を紐解くように、半ば強引に質問を投げかけて行った。



「先生」と書くとややこしくなるので、先生のことを「彼」と表現することをお許しください。


*****


彼は中学時代、100・200mを専門とする短距離選手で、100mで11秒3の記録を持っていた。
そして、高校駅伝で優勝した実績を持つ大濠高校に進学する(私は、大濠が陸上が強かったということは全く知らなかった)。彼の同級生には全国でトップクラスの選手が2~3人いたという。当然彼は短距離を専門にするつもりだったろうが、大濠で行われた長距離の大会で彼の走りを見たことのあった駅伝部の先生から長距離を勧められ、何の気なしに入部した。

入学して最初のタイムトライアルで5000mを走った。20人ほど部員がいたが、ひとつ前の順位の選手と1周遅れで、つまりダントツのドベでゴールをするという屈辱を味わった。
その時の様子を彼はこう話した。

-走りだしてすぐは、斜め下を見て走っていると前にたくさんの足が見えた。なのに、すぐに見えなくなった。「ヤバいぞ!」と思ってスピードを上げて走っていたつもりなのに、しばらくたつと、後ろからドッドッと足音と共に荒い息遣いが聞こえてくる。何だ!?と思って後ろを振り返ると、もう先頭に抜かれていた。「うわー!全員に抜かれる」と思った時にはまた全員の足が目の前を通り過ぎていった・・・


さすがにその状況はまずいと思って、家から20キロ近くある距離を走ったり、自転車に乗ったりして登校した。電車に乗る時はつま先立ちをしてトレーニングに勤しんだ。ただ、朝走って登校することは禁じられていたので、先輩が朝の練習に来るかなり前には学校に着いて、着替えて、何食わぬ顔でもう一度登校していた。

そして3か月後にまたタイムトライアルが行われた。
彼は、前回と同様に前に足が全く見えず、後ろから息遣いが聞こえていたので、「抜かれる~!!」と思って必死で走っていた。しかし、ゴールをしてみると何と1番だったのだ。
その後、延岡で行われた大会に出場することとなった。その大会では、あの有名な宋兄弟が1位、2位で、大濠高校の先輩が3位、彼は4位に入賞し、徐々に頭角を現すこととなる。
その年の高校駅伝県予選では1年生ながらアンカーに選ばれた。当時大濠高校は県では無敵であり、前年度は全国で優勝した強豪チームであった(1969年20回大会で大濠は全国優勝)。前年のメンバーも4人残っていたので、アンカーになった彼には優勝しか頭になく、ゴールテープを切る練習ばかりしていた。しかし、いざレースが始まると、前年メンバーは調子が出ず、約150m遅れでタスキが回ってきて、結局追いつくことは出来ず勝てなかった。県予選で敗退した大濠高校は、京都へ優勝旗を返しに行かねばならなかった。その時、監督が「悔しさを覚えておけ」と1年生である彼と同級生の2人で優勝旗を返しに行かせた。

実は、2度目のタイムトライアルの後、彼はほとんど練習をしなかった。つまりサボっていたのだ。しかし、大会前の調整だけで5000mでは県で負けなかったという。

大濠高校を卒業後、順天堂大学に進学することとなる。全国的に有名な陸上の強豪校であるが、彼は順大がそこまで強いとは知らなかった。話があったから行った、それだけのことだった。
しかし、いざ入学してみると日本ランキングトップの選手がゴロゴロいた。県では無敵だった彼も、同級生や先輩と比べた時、ランキングだと後ろから数えたほうが早かった。
順天堂大は、いわゆる「エリート集団」であった。当時インカレでは連覇しており、ユニバーシアードやオリンピックに選ばれるような選手もたくさんいた。1学年の全生徒の約3分の1が陸上部で、そのうち6割は各種目の高校ランキングで10位以内の有名選手ばかりであった。個人として日本選手権に出るよりも、順天堂大学の代表として、順天堂大学のユニフォームを着て、インカレや箱根に出ることのほうが難しかった。それくらい、順天堂大のユニフォームを着ると言うことには重みがあった。

そんなメンバーばかりだったから、高校では手を抜いていた彼もさすがに頑張らなきゃいけないと思い練習もちゃんと取り組んだ。その成果も現れ、当時行われていた東京-青森間や東京-新潟間駅伝の千葉県代表メンバーに選ばれ、部内でも認められるようになった。

そして、彼にとっての初の箱根駅伝(第50回大会)がやってきた。1年生ながらメンバーに選ばれ、3区(戸塚~平塚間)を走った。チームとしては総合で3位であった。2年生では6区に選ばれ、山下りも経験した。区間では6位で、総合では2位であった。3年生の時、膝を悪くしていたので出場は厳しいかと思われたが、インカレの標準記録が出ていたので、8区のメンバーとして平塚~戸塚を区間6位で走った。総合では5位となった。


ここへきて私は困った。困ったと言うか、何か足りないと感じた。

箱根駅伝の話が軽すぎる。私は、先生の実績を知りたいのではなく、その中身を知りたかった。
どれだけ血の吐くような努力をして、自分自身や仲間との間に葛藤があって、こんなアクシデントがあって、そしてこういう結果になった、とストーリーが欲しかった。でも彼からはそんな話は一つも出てこなかった。

むしろ彼は、大学時代にキツい練習をしていないと言う。ほとんどケガをしていて(していることにして…?)、練習をしていないし、苦しい・つらい・きつい練習もやった記憶がないと言う。合宿でも散歩かジョギングしかしていない、と…。もちろん他のメンバーはとても真面目だったそうだ。(彼の同級生には、日本代表の木崎良子さんの父、木崎和夫さんがいて4年連続で箱根を走っている)

それでも彼はメンバーに選ばれ、箱根を3回走った。

1年生の時には、メンバーに漏れた4年生がマッサージしてくれた。気持ちよくて眠たくなったときに背中にポタポタ何かが落ちてくるのを感じた。先輩が汗をかくくらい一生懸命やってくれているんだと思い、そっと見てみると、涙を流しながらマッサージしてくれていた。起きるに起き上がれず、ひたすら寝たふりをしていた。
また、4年生に冗談で「朝ごはん○○が食べたいなぁ」と言うと、そのメニューを用意してくれていた。「すいません!」と彼が謝ると「ええよ。頑張ってくれたらいいから」と言われた。メンバーが決まった後は、何をするにも、どこへ行くにもメンバー外の先輩が準備してくれて、サポートしてくれていたのだ。
そして、箱根が終わった後の打ち上げの時に、先輩たちが「俺は走りたかった!!」とワンワン泣くのを見るのが堪らなかったと言う。

そして彼は最終学年である4年生を迎える。
しかし3年生の箱根でケガを持って走った代償は大きく、その後膝の手術をし、4年生で走ることは絶望的だった。留年をして、治療をするという選択肢もあったが、家庭の事情もあり進級した。
驚くことに監督は、走ることができない彼をキャプテンに任命した。


走れない彼は、自分が4年生でキャプテンでありながら1年生のマッサージをしなければいけなかった。



そこで初めて、彼は今までに感じることのなかった気持ちを味わった。


自分はなんてバカだったんだろう。
当たり前と思っていたことが当たり前じゃなかった。
みんなこうやって苦労していたのだ。
4年間これ(選手のサポート)だけをして卒業する人もいる。


「ここが俺の原点だ」


そのことに気付いた彼は4年生の時、今まで自分がしてもらったこと全てを後輩にした。

箱根が終わった後の納会では、キャプテンではあったが、雛段に立つ15人の選手の一番後ろの一番端っこに立っていた。ただ、立っているだけであった。


「負けるってこういうことなんだ。だから、負けたらいけない」


だから箱根を走った人は負けたくないという思いが強くなるのだ、と。



*****



いくら聞いても先生には、テレビで特集されるほどの美談はなかった。
箱根に関しては“頑張っていないから”あまり言ってほしくないという先生の気持ちも察した。


しかし、ゆるぎない信念があった。

先生は練習をしていなかったことを認めているが、メンバーに選ばれる自信もあった。

「みんな頑張っているのは同じ。土俵はひとつしかない。努力は大切だし、それを認めてくれる人はいるかもしれない。だが、結果は勝つか負けるかだけ。勝負が出来るかということ。この時、この時、というチャンスが訪れているときに活かせなかったら頑張っても意味がない。美談にはなっても、結果はダメだったということに変わりはない。箱根を走れたか走れなかったかは明らかな結果だから。そういう意味では4年生のときは負けたのだ」と。


先生の話を聞いていると、箱根駅伝の別の側面が見えたようにも感じた。
もしかしたら、先生のように、そこまで大きな思い入れがなく箱根を走っているランナーも(多くはないだろうが)いるのかもしれない。それにスポットライトの当たらないランナーの方が多いのも事実だ。
箱根駅伝は、今でこそテレビもラジオも追いかけ、特番までもが何度もあり、とても大きな大学の宣伝効果になっている。大学側の力の入れ方も大きいし、長距離ランナーにとっては憧れの存在となっている。
しかし当時は、ラジオ放送しか行われておらず、西日本出身の陸上部には箱根を知らない選手もいたそうだ。先生はそういう時代に、何となく速くて何となく箱根を走った。そして、今の時代となって、周りからスゴイと称賛される。はじめはピンと来なかったが周りから言われてその価値を実感するようになったそうだ。先生にとって箱根駅伝は、お酒を飲みながら話す過去の懐かしい話でしかない。

では先生はなぜ、あんなに箱根駅伝を一生懸命見ていたのだろうか?
答えは簡単であった。母校を愛しているから。誇りと自信を持っているから。誰が速いとか注目されているとかはに興味はなく、シード圏内に入ってくれたらまた来年も母校が見れるのが嬉しいから、それで見ているのだ。


私は陸上選手と言うのは(特に箱根を走るような選手は)、自分にひたすら厳しく、追い込んで追い込んで、倒れるまで走っているものだと思っていた。
だが先生は違っていた。実際にサボっていたし、嫌だ、嫌だといつも思いながら走っていた。裏を返せば本当につらいと思ったことはなかったのかもしれないと言う。周りはそう思っていたかもしれないが、先生にとっては許容範囲だったということになる。
つらかったその時を過ぎてしまえばそれは過去であり、そのことを考えてもどうしようもない。過去をひきずってまだ起きてもないことを心配する必要はないし、不安になるのは自分がやっていないからだと、私に説教しているようにも聞こえた。


つまり先生は過去を引きずらない人生を送っているらしい。


「俺は楽観的なのかな?生徒には違うこと言うけどね。」


・・・分かったような分からないような気持ちであった。



最後に先生に聞いてみた。


-もっとやっておけば、上にいけたと思いますか?

上に行けたかもしれない。でも当時はこれでいいやと思っていた。
自分がした「努力」は選手(メンバー)になるまでの努力であって、一番になった途端にやめてしまった。だから抜かれたし、俺はそこまでだったってことだ。


先生が私たちに教えてくれていたのは、自分自身が経験したこと全てだった。
やはり努力は続けなきゃダメだということ、そして過去ではなく前(未来)を見なければいけないということを教えてくれていた。


先生とたくさん話をした。
先生に当時怒られた(教わった)ことの本当の意味が分かった気がした。

先生にはとても感謝している。
先生がいなければ今の自分はない。
バレーボールを通じて出会った仲間と経験できた全てのことは今でもかけがえがないものだ。
そしてその全てが今につながっている。

私も先生と同じように母校をもっと誇りに思い、応援しなければと思った。
そして博多女子高校の卒業生として、バレーボール部のOGとして、輝いていなければいけないと心から思った。


たかしま まりお

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我らの永遠のスター

今回の取材対象は、バレーボールで知り合った小学校からの友達。

一緒のチームでプレーをすることはなかったけど、選抜合宿などで一緒に練習したこともあった。彼女はライバルチームの中心選手であり、そして誰もが憧れるスターだった。

彼女の名は宮下樹理(旧姓・佐田)さん。今は結婚して4歳の娘さんがいるママだ。

私が取材ブログを始めるにあたって、「誰に会って話を聞きたいか」と考えた時にいち早くリストに上がった人物。ただ、ゴールデンウィークの帰省中に会う予定はいれていなかった。
今回の帰省では、同じ高校で共にバレーボールを追いかけ、寮生活を送った家族のような友達と会うことにしていた。もちろん取材としてではなく、同窓会的な感覚で。その友達と会って話をしていると、樹理ちゃんの話になった(以降、彼女と書く)。2人ともFacebookでつながっていたので、近況もある程度知っていた。彼女は今、自宅でYOSAと言うサロンを開いている。YOSAが何だかよく分からないが、行ってみたいと2人とも思っていた。そしてごく自然な流れで、佐賀にいる彼女に会いに行くことになった。
福岡から佐賀の鳥栖市まで車で1時間ほど。友達と思い出話をしながらドライブしていたら、友達からも面白い話が聞けたが、これは別で書くとする。

彼女は自宅の一室をサロンとして使用している。私自身30年生きてきた中で、色んなエステやマッサージを経験してきたが、話を聞いた感じでは、韓国のよもぎ蒸しに似ていると思った。どこがつらいか、改善したいかのカウンセリングを受け、いよいよ施術のスタート。専用のウエアを着て、チタニウムエッヂと呼ばれる石のような器具を使って軽くマッサージを受ける。その後、ケープを着用して、椅子の下部からハーブの蒸気が出てくるYOSAチェアと呼ばれる椅子に座って、しばらく経つと汗が出てくる。随時、水素水で水分を補給し、また汗をかきの繰り返しで約1時間。人によって向き不向きもあろうが、身体を温め、汗をかくことは気持ちが良かった。YOSAはハーブの蒸気で身体を芯から温め、新陳代謝を促進することで健康となることを目的とする健康法のようだ。


こんな感じでした。
DSC_3467.jpg

サロンはこんな雰囲気。
DSC_3461.jpg

YOSAとは…http://www.yosapark.co.jp/


私はYOSAが何か、どのような効果があるかの興味もあったが、それ以上に、彼女がどうしてサロン経営を始めるに至ったか、それまでの道のりに興味があった。

彼女はプロのバレーボールプレーヤーだったのだ。熊本にあるバレー名門高校を卒業して、JTマーベラスに入団した。先にも述べたが、彼女のプレーはテクニックがあり、知的でクール、見た目もきれいで華がある、同世代から見てもスター選手だった。そんなスター選手でも実業団に入ればそれ以上の選手がゴロゴロいる。アタックもレシーブもサーブも上手にこなす彼女だったが、レギュラーを勝ち取ることができなかった。試合に出れない悔しさ、交代選手として出るプレッシャーの重さが大きくなり、精神的に追い込まれるまでになった。彼女は当時自分は弱かったと振り返るが、そのような苦難を味わいながらプロスポーツ選手として活動している人は山ほどいる。そのほとんどの人がひっそりと引退していくのだ。
4年でJTを引退して、当時付き合っていた人との結婚も考えていた。
しかし相手もプロバレーボール選手(JTサンダース)だった。彼女の性格をよく知る彼は、
「このままの気持ちで辞めたら、後で絶対にやりたいというに決まっている。辞めた後にもっとやりたかった、もっと出来たのにと言ってほしくなかった」
とJTを辞めた直後に来た日立佐和リヴァーレからのオファーを受けるように勧めた。彼女はプロポーズをしてくれるかと思っていたのに、バレーを続けろと言われ拍子抜けしたが、確かにこのまま辞めたら負け犬になってしまう、そう思って決意した。それに日立佐和にはついていきたいと思える監督もいた。日立佐和ではキャプテンとしてチームを引っ張り、また輝きを取り戻した。1年半経った頃、監督がチームを去ることになり、一緒に引退した。JTの時と違い、思い残すことのない、やりきったと思える引退だった。

そして満を持して(?)彼のいる広島へ移り、結婚することとなった。プロポーズのエピソードも聞いた。まだ彼女がJTにいた頃の話だが、デートで出雲大社に出かける道すがら、「結婚式では白無垢を着てほしい」と言われたそうだ。これは普通ならプロポーズと気付くだろう。しかし彼女は白無垢が何かも知らず、出雲大社が縁結びの神様とも知らなかった。だから意味が分からず、気付かなかったと言う。バレー一筋に頑張ってきた彼女の無知を許してほしい(笑)。天才的なプレーヤーにはたまにこういうちょっと抜けたタイプがいるものだ。

結婚して子供が産まれ、子育てが落ち着いた頃、働くことを考えたが、、本当にやりたいと思えることをやりたかった。人助けや人の喜ぶことがしたいと思っていたから、治療院ができたらとも考えていた。
と言うのも、現役時代、とてもお世話になった整体の先生がおり、その人にケガの治療や病気の発見など何度も助けられ、影響を大きく受けたからだそうだ。私も治療を受けたことがある、とても有名な先生だ。彼女はその先生から「バレーを辞めても人が喜ぶ仕事をしなさい」と言われた。「ファンや子供があなたのプレーを見て、バレーを頑張ろうとか、勇気をもらえたと思ったとしたら、それは人助けをしていることだ。バレーを辞めても、人が喜んで笑顔になる仕事をしなさい、そうすれば自分も幸せになれるから」と教えてくれた。
そういう仕事を探していると、ご主人の知人からYOSAを伝え聞くこととなる。体験してみると、彼女が悩んでいた喘息や鞭打ちの症状が治り、これだったら自分も周りの人に出来る人助けだと思った。
いつでも、誰とでも、子供連れでも、気軽に来てほしい、そして体験してほしいと彼女は言う。
自分自身が母親となり思うことは、家族の太陽であるべき母という存在が疲れていたら、家族も疲れて暗くなってしまう。女性は肌がきれいに変わったら、化粧が変わり、着る服が変わる。着る服が変わったら、出かける場所が変わり、付き合う人が変わる良い循環が生まれる。お母さんが月に一回でもいいから、来ると元気になれる駆け込み寺のような場所をつくりたい、と考えている。

そんな彼女に今の夢を聞くと、まずは家族の幸せが一番、それから自分に関わった人が健康でハッピーに過ごせることだと言う。YOSAを通じて、現代人が抱える病気をなくし、皆が集まれる場所を作りたい、そう強く願っている。現在、近隣の主婦から遠方からのお客さん、選手時代のファンの方までお店に来てくれるそうだ。たくさんある店舗の中で自分のお店に来てくれる人を大切にしたいと言う。実際に私も彼女がお店をやっていると知らなければ、会いに行って話を聞きたいと思わなかっただろう。彼女はYOSAを通して、これまでに培ってきたつながりや縁を再び強くすることが出来たのだ。

彼女は言った。

人生で2つも夢中になれるものを見つけることが出来た。それって本当にすごいこと。

大好きなバレーを生業として、満足が行くまでプレーした。
そして引退してからYOSAという夢中になれるものをもうひとつ見つけた。

愛する家族と同じように、一緒に一生歩いて行ける仕事を見つけたのだ。
生き生きと話す樹理ちゃんは、プレーヤーの時と同じようにやっぱりスターに見えた。

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彼女が運営するのは、YOSA PARK 樹(いつき)
Facebookページ:http://www.facebook.com/yosa.itsuki


たかしま まりお

江戸へ旅立つ舞台裏のヒーロー

今回の取材対象の方に会うのは、2回目。

これまで取材させてもらった人の中では、おそらく一番私に立場が近い人物である。


細川 博司さん(39)

肩書きを聞くと、
「舞台演出家」「脚本家」そして「劇団バンタムクラスステージ代表」


取材する前の情報としては
「舞台を作っている、ペルノ(お酒)で酷いことになったことがある」くらい。



私は2月に所属する松竹芸能俳優部公演に出演させてもらい、
舞台の何たるかを、少しは学んだつもりでいた。

が、しかし、それはあくまでも事務所が主催して“くれる”舞台。
自分たちで準備したり、作り上げた部分もあったので、してもらっただけではないのだ、と
「劇団」の代表の前では、とても言えたものではない、と言ってから気付いた。


そもそも、「劇団」とは何なのか?

劇団はこの世にどうやって生まれるのか?

それを投げかけてみると、劇団を説明するにはまず「劇団員」の定義から話す必要があると、少し間を置いて、ゆっくりと説明してくれた。

劇団員とは、役者としてだけではなく、準備や稽古場・劇場予約、渉外などの雑用も行う。
つまり劇団とは「こんな芝居をしたい」と思いを持って、それにまつわる運営をみんなで分担して行う団体である、と。

それはそれは強い志とプライドを持って劇団活動をしているのだろうと思ったが、細川さんは自分のやっていることは「趣味」であると断言した。それだけで食べていけない限り、プロとは言えないと言うのだ。

このことに関しては、激しく同意した。

私は周りの人から、舞台に出てスゴイとか、ラジオがあって忙しいね、とか言ってもらえることがある。
でも現実は、バイトで稼いだお金で生活を送っているのだ。タレントとしての活動をしている時間よりもバイトをしている時間のほうが長いのだ。そして初対面の人に「仕事は何をしているのですか?」と聞かれたときに何と答えるかを悩み、「タレント」と言った後の反応がどうかを死ぬほど恐れているのだ。

理想と現実の間で、プライドとコンプレックスの間で、冷静と情熱の間で、日々彷徨っているのだ。



細川さんのルーツを探るには、小さい頃からの話を聞くほかない。

小さい頃の夢は、漫画家。
漫画家になりたかった人は五万といるだろう。でも人はどこかで現実を見る。自分の実力を知る。
しかし細川さんは小学校も中学校も高校でも漫画家の夢を持ち続け、同人誌を書いて、コミケ(コミックマーケット)に出したりしていた。
高校の美術の先生に夢を打ち明けると「漫画家になるには漫画以外の知識も必要。映画も勉強しなさい」と言われ、大阪芸術大学の映像学科に進むこととなった。そこでは映像製作についてはもちろん、脚本についても勉強した。
ところが知ってから知らずか、卒業に必要な一般教養の授業をほとんど取っていなかった。どうしたものかと考えていると、友人から映像製作担当として劇団に入ってほしいと頼まれた。その劇団は劇中にプロジェクターで映像を映すという演出方法をとっていたのだ。映像学科の細川さんは短編映画なども作っていたのでお手のものだった。

細川さんは思った。「劇団に入れば大学を辞める理由になる!」

母親に「劇団に入るから大学を辞める」とまったく筋の通らない話をして大学を辞めたが、学生マンションには住み続けた。その頃の生活は褒められたものではなかったようだ。当時の自分はクズだったと自虐するほどに。

その劇団は現役大学生と卒業生とで構成されていた。
そこでの細川さんの立ち位置は映像製作。芝居に関与していなかったが、映像を作るだけでは暇を持て余す。稽古場に顔を出し見学していると、演出担当が行う「ダメ出し」が面白くてメモをするようになった。すると役者たちが自分たちが何を言われていたのか確認に来るようになった。

いつしか演出助手のポジションになっていた。
ある時、劇団が2本立ての舞台をすることとなり、その1本の演出を任されることになった。これが演出家デビューだった。この舞台が思いの外評判がよく、手ごたえを感じていた。それに同じ劇団に2人の演出家は要らない。2000年に「バンタムクラスステージ」を立ち上げた。

ネーミングに興味のある私はもちろん劇団名の由来を聞いた。
あしたのジョーが好きな細川さんはそこから矢吹丈の階級である「バンタム級(クラス)」をチョイス。またバンタムには「凶暴なニワトリ」や「生意気な小男」のような意味合いがあり、そこも気に入った。さらにもともと3つの単語で構成される言葉が好きだったので、「舞台」の意味である「ステージ」を付けた。

まだ小さい劇団ながらも演劇界にケンカを仕掛けるように挑んでいく姿勢そのものの名前だと感じた。


劇団を立ち上げたものの専属の役者もいなければ、スタッフもいない。これまでの人脈を使って人を集め、公演を打った。上々の評判を得て、その後も念に1回のペースで公演を続けた。


人生は、ほとんどの人にとって、順風満帆には行かないものだ。

もしくは周りから順風満帆に見えていても、当人はそう思っていないことも往々にある。



細川さんは結婚した。
当時劇団をしながら専門学校の演技指導講師をして生計を立てていたが、家族のために転職し仕事を頑張った。仕事を頑張ったら忙しくなる。劇団は一時途切れた。多忙の中でも時間を見つけては、地道に映画を自主制作をしていた。


細川さんは離婚した。会社も辞めた。

そして、やっぱり、思った。

「芝居をやろう」


自主制作した映画は映画館で上映もしたが、反響は無く、手ごたえも感じなかった。
映画は好きであることが裏目に出て、やりたいことに限界があると思ったし、こだわりすぎてファンが作っただけの作品に感じた。
いっぽうの芝居は、誰に教わったわけでもないので、先入観なく我流を貫くことが出来たし、好き放題にやれる。


再スタートしてから自主作品「ルルドの森」を上演。
サイコサスペンスではあるが私小説に近い内容で、舞台でありながら映画の脚本のように演出した。演劇コンテストで評価が分かれ、審査員の間で物議を醸し、‘ある意味’話題となった。

その「映画のような舞台」とは、通常の舞台ではあまり行われない舞台転換の多さを指す。また、バンタムクラスステージの特徴としては、リアルな銃撃戦がほぼ取り入れられ、凄まじい緊張感の中「痛い・怖い」を躊躇いなく表現し、人が死ぬシーンも多い。芝居で「恐怖」を体験してもらうことをモットーとしている。

ホラーが苦手な人は無理だ。

でもそれでもいい。他にないもの、負けないものを作りたいのだ。


・・・と書いている私もまだ見たことが無いので、知ったようなことは言えないのだが・・・


映画的な感触のスタイルが確立され、徐々に劇団は芽を出し始めた。
専属の役者も揃い、リピーターが増え、人気も出てきて、芝居を打つと満席になった。

2011年初の東京公演作品が、池袋演劇祭で優秀賞を取った。

この世界で東京つまり「江戸」で評価されることは大きな意味を持つ。
誰もが東京を夢見る。東京で売れて、全国区になりたいと思う。

いつもは舞台で銃を撃っていた細川さんは、東京でその舞台の「珍しさ」を評価されたことが引き金となり、好機逸すべからずと東京行きの銃を撃つことに決めた。


ここから先は、未来である。


東京行きは2013年5月。


その先のストーリーは、細川博司という舞台裏のヒーローが一生を掛けて書き上げるのだ。


DSC_3315.jpg

劇団バンタムクラスステージ



たかしま まりお

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プロフィール

まりお

Author:まりお
「“フリ”ライター」高島まりおです。

気になる方へインタビューし、記事を書いていきます。
その他、面白いこと、楽しいこと、興味あることを中心に、綴っていきます。

月一でインタビューイベントを開催しています!
「フリライターまりおの取材してるふり。」

イベントと記事(ブログ)連動していますので、こちらも是非チェックをお願いします。


目指すは…Sex And The Cityのキャリーブラッドショー!

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