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美談のない箱根ランナー

今回の取材対象は、恩師である。

私がバレーボールにすべてを捧げた高校時代の恩師、博多女子高校バレーボール部の入江利昭監督である。


ただ今回はバレーボールについて書くつもりはない。
タイトルを見て分かるように、「監督」「恩師」と言うワードはない。


私の高校のバレー部の監督は、元箱根ランナーなのだ。

もちろん、高校生の頃は、その偉大さを知りもしない。

私のチームは正月も合宿を行うので、箱根駅伝はいつも移動用のバスで見ていた(見させられていた)。先生の出身は順天堂大学。もちろん名門校だ。順天堂の成績が良くないと(多分当時の思い込みだが)練習が厳しくなるというような影響が出た記憶がある。
先生は箱根駅伝のエピソードとして、「先生が1年生のとき、メンバーに選ばれなかった4年生が涙を流しながらマッサージをしてくれた」という話をよくしていた。お前たちにその気持ちが分かるか、というような説教につながったように覚えている。

とにかく当時は「箱根駅伝」の話題は嫌いだった。


高校を卒業して12年、先生と向かい合って話すことは一度もなかった。
後輩の試合を見に行ったときに挨拶をして、少し話をしたが、改まって話を聞いたのはこの取材が初めてだ。

母校の校舎へ行き、応接室で先生と向かい合って座る。
ワクワクもするし、ドキドキもする。何を話そう、何を聞こう。

私の仕事については、私が載っている新聞記事を見たことがあるようで先生は知っていた。
「結婚の報告かと思った」とも言われたが、先生に“取材として”箱根駅伝についてお話を聞きたいと伝えると

「俺には話せることはないぞ」

と言われ、のっけからバリアを張られたと感じた。きっと箱根を走った人たちはいつも同じような質問をされ、話すのに飽きちゃったんだろう、大したことないと謙遜しているのだろうと思ったので怯まずに返した。

「私は走る男女子部という番組のロケで、箱根路を走りました。本当に過酷で大変でした。長距離を走るようになって箱根ランナーの凄さを知ったんです。今では箱根の大ファンです。だから聞かせて下さい」と。

それでも先生は乗り気ではなかった。「俺は走ることが嫌いだ」とも言った。
そして「お前がイメージしているような美談はないぞ」と言い切った。

そんな様子だったが、先生の歴史を紐解くように、半ば強引に質問を投げかけて行った。



「先生」と書くとややこしくなるので、先生のことを「彼」と表現することをお許しください。


*****


彼は中学時代、100・200mを専門とする短距離選手で、100mで11秒3の記録を持っていた。
そして、高校駅伝で優勝した実績を持つ大濠高校に進学する(私は、大濠が陸上が強かったということは全く知らなかった)。彼の同級生には全国でトップクラスの選手が2~3人いたという。当然彼は短距離を専門にするつもりだったろうが、大濠で行われた長距離の大会で彼の走りを見たことのあった駅伝部の先生から長距離を勧められ、何の気なしに入部した。

入学して最初のタイムトライアルで5000mを走った。20人ほど部員がいたが、ひとつ前の順位の選手と1周遅れで、つまりダントツのドベでゴールをするという屈辱を味わった。
その時の様子を彼はこう話した。

-走りだしてすぐは、斜め下を見て走っていると前にたくさんの足が見えた。なのに、すぐに見えなくなった。「ヤバいぞ!」と思ってスピードを上げて走っていたつもりなのに、しばらくたつと、後ろからドッドッと足音と共に荒い息遣いが聞こえてくる。何だ!?と思って後ろを振り返ると、もう先頭に抜かれていた。「うわー!全員に抜かれる」と思った時にはまた全員の足が目の前を通り過ぎていった・・・


さすがにその状況はまずいと思って、家から20キロ近くある距離を走ったり、自転車に乗ったりして登校した。電車に乗る時はつま先立ちをしてトレーニングに勤しんだ。ただ、朝走って登校することは禁じられていたので、先輩が朝の練習に来るかなり前には学校に着いて、着替えて、何食わぬ顔でもう一度登校していた。

そして3か月後にまたタイムトライアルが行われた。
彼は、前回と同様に前に足が全く見えず、後ろから息遣いが聞こえていたので、「抜かれる~!!」と思って必死で走っていた。しかし、ゴールをしてみると何と1番だったのだ。
その後、延岡で行われた大会に出場することとなった。その大会では、あの有名な宋兄弟が1位、2位で、大濠高校の先輩が3位、彼は4位に入賞し、徐々に頭角を現すこととなる。
その年の高校駅伝県予選では1年生ながらアンカーに選ばれた。当時大濠高校は県では無敵であり、前年度は全国で優勝した強豪チームであった(1969年20回大会で大濠は全国優勝)。前年のメンバーも4人残っていたので、アンカーになった彼には優勝しか頭になく、ゴールテープを切る練習ばかりしていた。しかし、いざレースが始まると、前年メンバーは調子が出ず、約150m遅れでタスキが回ってきて、結局追いつくことは出来ず勝てなかった。県予選で敗退した大濠高校は、京都へ優勝旗を返しに行かねばならなかった。その時、監督が「悔しさを覚えておけ」と1年生である彼と同級生の2人で優勝旗を返しに行かせた。

実は、2度目のタイムトライアルの後、彼はほとんど練習をしなかった。つまりサボっていたのだ。しかし、大会前の調整だけで5000mでは県で負けなかったという。

大濠高校を卒業後、順天堂大学に進学することとなる。全国的に有名な陸上の強豪校であるが、彼は順大がそこまで強いとは知らなかった。話があったから行った、それだけのことだった。
しかし、いざ入学してみると日本ランキングトップの選手がゴロゴロいた。県では無敵だった彼も、同級生や先輩と比べた時、ランキングだと後ろから数えたほうが早かった。
順天堂大は、いわゆる「エリート集団」であった。当時インカレでは連覇しており、ユニバーシアードやオリンピックに選ばれるような選手もたくさんいた。1学年の全生徒の約3分の1が陸上部で、そのうち6割は各種目の高校ランキングで10位以内の有名選手ばかりであった。個人として日本選手権に出るよりも、順天堂大学の代表として、順天堂大学のユニフォームを着て、インカレや箱根に出ることのほうが難しかった。それくらい、順天堂大のユニフォームを着ると言うことには重みがあった。

そんなメンバーばかりだったから、高校では手を抜いていた彼もさすがに頑張らなきゃいけないと思い練習もちゃんと取り組んだ。その成果も現れ、当時行われていた東京-青森間や東京-新潟間駅伝の千葉県代表メンバーに選ばれ、部内でも認められるようになった。

そして、彼にとっての初の箱根駅伝(第50回大会)がやってきた。1年生ながらメンバーに選ばれ、3区(戸塚~平塚間)を走った。チームとしては総合で3位であった。2年生では6区に選ばれ、山下りも経験した。区間では6位で、総合では2位であった。3年生の時、膝を悪くしていたので出場は厳しいかと思われたが、インカレの標準記録が出ていたので、8区のメンバーとして平塚~戸塚を区間6位で走った。総合では5位となった。


ここへきて私は困った。困ったと言うか、何か足りないと感じた。

箱根駅伝の話が軽すぎる。私は、先生の実績を知りたいのではなく、その中身を知りたかった。
どれだけ血の吐くような努力をして、自分自身や仲間との間に葛藤があって、こんなアクシデントがあって、そしてこういう結果になった、とストーリーが欲しかった。でも彼からはそんな話は一つも出てこなかった。

むしろ彼は、大学時代にキツい練習をしていないと言う。ほとんどケガをしていて(していることにして…?)、練習をしていないし、苦しい・つらい・きつい練習もやった記憶がないと言う。合宿でも散歩かジョギングしかしていない、と…。もちろん他のメンバーはとても真面目だったそうだ。(彼の同級生には、日本代表の木崎良子さんの父、木崎和夫さんがいて4年連続で箱根を走っている)

それでも彼はメンバーに選ばれ、箱根を3回走った。

1年生の時には、メンバーに漏れた4年生がマッサージしてくれた。気持ちよくて眠たくなったときに背中にポタポタ何かが落ちてくるのを感じた。先輩が汗をかくくらい一生懸命やってくれているんだと思い、そっと見てみると、涙を流しながらマッサージしてくれていた。起きるに起き上がれず、ひたすら寝たふりをしていた。
また、4年生に冗談で「朝ごはん○○が食べたいなぁ」と言うと、そのメニューを用意してくれていた。「すいません!」と彼が謝ると「ええよ。頑張ってくれたらいいから」と言われた。メンバーが決まった後は、何をするにも、どこへ行くにもメンバー外の先輩が準備してくれて、サポートしてくれていたのだ。
そして、箱根が終わった後の打ち上げの時に、先輩たちが「俺は走りたかった!!」とワンワン泣くのを見るのが堪らなかったと言う。

そして彼は最終学年である4年生を迎える。
しかし3年生の箱根でケガを持って走った代償は大きく、その後膝の手術をし、4年生で走ることは絶望的だった。留年をして、治療をするという選択肢もあったが、家庭の事情もあり進級した。
驚くことに監督は、走ることができない彼をキャプテンに任命した。


走れない彼は、自分が4年生でキャプテンでありながら1年生のマッサージをしなければいけなかった。



そこで初めて、彼は今までに感じることのなかった気持ちを味わった。


自分はなんてバカだったんだろう。
当たり前と思っていたことが当たり前じゃなかった。
みんなこうやって苦労していたのだ。
4年間これ(選手のサポート)だけをして卒業する人もいる。


「ここが俺の原点だ」


そのことに気付いた彼は4年生の時、今まで自分がしてもらったこと全てを後輩にした。

箱根が終わった後の納会では、キャプテンではあったが、雛段に立つ15人の選手の一番後ろの一番端っこに立っていた。ただ、立っているだけであった。


「負けるってこういうことなんだ。だから、負けたらいけない」


だから箱根を走った人は負けたくないという思いが強くなるのだ、と。



*****



いくら聞いても先生には、テレビで特集されるほどの美談はなかった。
箱根に関しては“頑張っていないから”あまり言ってほしくないという先生の気持ちも察した。


しかし、ゆるぎない信念があった。

先生は練習をしていなかったことを認めているが、メンバーに選ばれる自信もあった。

「みんな頑張っているのは同じ。土俵はひとつしかない。努力は大切だし、それを認めてくれる人はいるかもしれない。だが、結果は勝つか負けるかだけ。勝負が出来るかということ。この時、この時、というチャンスが訪れているときに活かせなかったら頑張っても意味がない。美談にはなっても、結果はダメだったということに変わりはない。箱根を走れたか走れなかったかは明らかな結果だから。そういう意味では4年生のときは負けたのだ」と。


先生の話を聞いていると、箱根駅伝の別の側面が見えたようにも感じた。
もしかしたら、先生のように、そこまで大きな思い入れがなく箱根を走っているランナーも(多くはないだろうが)いるのかもしれない。それにスポットライトの当たらないランナーの方が多いのも事実だ。
箱根駅伝は、今でこそテレビもラジオも追いかけ、特番までもが何度もあり、とても大きな大学の宣伝効果になっている。大学側の力の入れ方も大きいし、長距離ランナーにとっては憧れの存在となっている。
しかし当時は、ラジオ放送しか行われておらず、西日本出身の陸上部には箱根を知らない選手もいたそうだ。先生はそういう時代に、何となく速くて何となく箱根を走った。そして、今の時代となって、周りからスゴイと称賛される。はじめはピンと来なかったが周りから言われてその価値を実感するようになったそうだ。先生にとって箱根駅伝は、お酒を飲みながら話す過去の懐かしい話でしかない。

では先生はなぜ、あんなに箱根駅伝を一生懸命見ていたのだろうか?
答えは簡単であった。母校を愛しているから。誇りと自信を持っているから。誰が速いとか注目されているとかはに興味はなく、シード圏内に入ってくれたらまた来年も母校が見れるのが嬉しいから、それで見ているのだ。


私は陸上選手と言うのは(特に箱根を走るような選手は)、自分にひたすら厳しく、追い込んで追い込んで、倒れるまで走っているものだと思っていた。
だが先生は違っていた。実際にサボっていたし、嫌だ、嫌だといつも思いながら走っていた。裏を返せば本当につらいと思ったことはなかったのかもしれないと言う。周りはそう思っていたかもしれないが、先生にとっては許容範囲だったということになる。
つらかったその時を過ぎてしまえばそれは過去であり、そのことを考えてもどうしようもない。過去をひきずってまだ起きてもないことを心配する必要はないし、不安になるのは自分がやっていないからだと、私に説教しているようにも聞こえた。


つまり先生は過去を引きずらない人生を送っているらしい。


「俺は楽観的なのかな?生徒には違うこと言うけどね。」


・・・分かったような分からないような気持ちであった。



最後に先生に聞いてみた。


-もっとやっておけば、上にいけたと思いますか?

上に行けたかもしれない。でも当時はこれでいいやと思っていた。
自分がした「努力」は選手(メンバー)になるまでの努力であって、一番になった途端にやめてしまった。だから抜かれたし、俺はそこまでだったってことだ。


先生が私たちに教えてくれていたのは、自分自身が経験したこと全てだった。
やはり努力は続けなきゃダメだということ、そして過去ではなく前(未来)を見なければいけないということを教えてくれていた。


先生とたくさん話をした。
先生に当時怒られた(教わった)ことの本当の意味が分かった気がした。

先生にはとても感謝している。
先生がいなければ今の自分はない。
バレーボールを通じて出会った仲間と経験できた全てのことは今でもかけがえがないものだ。
そしてその全てが今につながっている。

私も先生と同じように母校をもっと誇りに思い、応援しなければと思った。
そして博多女子高校の卒業生として、バレーボール部のOGとして、輝いていなければいけないと心から思った。


たかしま まりお

・・・追記

今回はまとめるのがとてつもなく難しく、書いても書いても修正の繰り返しで、もっとうまくまとめたくて、だけどどうしても早くアップしたくて、考えても切りがないので「えいっ」と記事をUPしました。

しかもものすごく長い・・・

読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。



あと、先生や箱根ランナーの皆様、クレームがあったら何なりと・・・
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結局才能で、乗りきってまう人も沢山いるよねっ。それは事実だね。
ただ、走れなかったけど腐らずに一年生のためにマッサージできた四年生は卒業して必ず人生の勝利者になっています。必ず。

すべてのひとにそれぞれのドラマがあって

テレビで流れてるようなドラマとは違う、
リアルな話し・ドラマだと思います。
才能・努力・タイミング(運)、
ひとりひとりの生き方、立場があって、
すべてが正しいとは言い切れない結果・現実がそこにある。

先生はとても
正直な方ですね。

自分の才能に対しても努力に対しても、
自分への気持ちや結果に対しても。
過去を美化する訳でも卑下する訳でも無く。

良い悪いを越えた、リアルなレポート、
興味深い内容でした。
読ませて戴き、ありがとうございます。

No title

箱根を見るのは、毎年の恒例行事です。いつしか家族全員がはまっていました。我が家には箱根の応援旗が飾ってあり、彼が身に着けたなす紺のユニフォームは40数年を過ぎた今も大切に箱に入れてしまってあります。何のエピソードも無くTVで取り上げられる事もありませんが、彼は間違い無く次を走る仲間にたすきを繋いだのです。取材で話していない事がまだまだありますが、それは生涯言うつもりがないのでしょうから、私も言わないでおきます。ただ、名門チームの主将になると言う事がどれだけの荷物を背負うのか察していただければ幸いです。

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プロフィール

まりお

Author:まりお
「“フリ”ライター」高島まりおです。

気になる方へインタビューし、記事を書いていきます。
その他、面白いこと、楽しいこと、興味あることを中心に、綴っていきます。

月一でインタビューイベントを開催しています!
「フリライターまりおの取材してるふり。」

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