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売り子の生態


2013年5月29日
セ・パ交流戦
阪神タイガースVS楽天イーグルス@甲子園にて


DSC_4063.jpg


どちらも好きだし、でも、どちらも応援していない。

そんな気楽な感覚で試合を見始めた。


やはり最初はビールだ。売り子に頼もう。




・・・彼女は突如現れた。


何の気なしに呼んだビールの売り子に心奪われた。

彼女は初めて会う私にこう言った。


「昨日は悔しい負けでしたからね~今日は勝ってほしいですね!!」



あまりの親しみやすさに「この子は何者だ!?」と写真を撮らせてもらったほどだ。


最初


最初は友人と2人で見ていたが、遅れてもう1人友人が来た時、もう一度同じ売り子から買うことにした。
彼女はさっき注文した私たちを覚えており、そのことにも感謝を述べてくれるあたり、確かな実力を感じた。

DSC_4067.jpg


ふと、あることに気付いた。

4位

彼女は4位だった。アイビー3塁側での月間4位の売り上げを上げている売り子だったのだ。

まさかそんな順位をアピールするというシステムがあるとは知らず、こうなったら、もっと上位の子からもビールを注いでほしい、上位である所以は何なのか知りたくてたまらなくなった。


もうそれからは試合はそこそこに順位のバンドを巻いている売り子ばかり探しだした。


次に見つけたのは、1位!!!

1位

顔はとっても整っていて、動きはキビキビ、応対はハキハキとして気持ちが良かった。あまり媚びない感じも良かった。
彼女はここ1年は1位をキープしているそうだ。ただ、今4年生で就職活動中のため勤務日数が少ないようで、5月度の1位は厳しいと言っていた。1位へのこだわりが垣間見えて、思わず応援したくなった。



そして次に見つけたのは、2位。

2位

1位の彼女と同じ大学で同じ学科だそうだ。1位の彼女には到底敵わないと謙遜していたが、おそらく5月度の1位は彼女であろう。就職活動も終了しており、ガンガン働ける状況だからだ。
彼女はどちらかと言うとおっとりしており、常連のお客さんに対してバイバーイと手を振っても許されるくらい愛嬌があった。売り子歴は2年弱で短い方だそうだが、それで2位の座を掴んでいるのは相当なやり手だ。男性の心をガシッと掴む術を身につけており、癒し系No.1の称号を与えられるレベルだった。


そして次に見つけたのは3位。

3位

彼女はどちらかと言うと体育会系だ。とてもパワフルでガッツがある感じが伝わってきた。売り子歴は2年ほど。そのガッツで着実に順位を伸ばしているようだ。ビジュアルで言えば、正直1、2位には劣るが、「1位を目指しています!!」と宣言するあたり、同じ体育会系としてはかなり好感が持てた。


5位を見つけるのには、なかなか苦労した。どうやら下の方のエリアを中心に活動している様子だった。
どうにか見つけて上まで来てもらった。

IMG_20130529_230959.jpg

彼女は売り子歴3年目。彼女からすれば1、2位は不動らしい。到底敵わないと言う。そして3位の子と仲良しだそうだ。写真を撮らせてと頼むと、少し恥ずかしそうにしながらも対応してくれた。さらに「お姉さんたちの写真を撮りましょうか?」と言ってくれた。上位メンバーほど順位のこだわりがない感じが可愛らしく、この子の人気があるのはそういった点かもしれないと思った。


話を聞くと、アイビー3塁側のエリアに売り子は30人ほどおり、所属の会社がそれぞれ違うようだ。
そしてもちろん、5位までに入るとインセンティブが入る。
上位メンバーは常連のお客さんを持っており、しっかりと顔を覚えているようだった。
何より動きが速い。試合のインターバル(打者が落ちた後に次の打者が出てくるまでの間や攻守交代の時間)には目にも止まらぬ速さで横移動を開始する。どんだけ周辺視が広いんだと思うほどビールを欲しがっている人を見逃さない。


売り子の足元にも注目だ。

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バレーボーラーには堪らない、膝のサポーターをしてるのだ!膝を付いてビールを注ぐため、必需品なのであろう。ミズノのサポーターは私も使っていた。膝サポーターがこんなところにも需要があるなんて、売り子とは何と愛おしいのだ…とさえ思った。



それから、売り子ばかり見ていると、あることにも気付く。
ビール以外の売り子は商品に合わせて色の異なるキャップを被っており、それぞれ順位を表示するバンドを付けている。

チューハイの売り子は黄色のキャップ、ハイボールは赤、黒ビールは黒。

その中で一際売る気の強そうな赤いシュシュをした黒ビールの売り子に着目した。

黒

黒ビール担当は全体で10人ほどおり、エリアに関係なく動き回れるそうだ。
また、担当商品は各所属会社で決められるようで、彼女は最近黒ビール担当になったそうだ。
しかし日によって担当する商品が変わる子もいるそうで、そういった子は順位を狙いにくいと言っていた。
幸い彼女は黒ビール専属だそうで、何でも話してくれるその屈託のなさは10人の中で1位を取るのも容易そうな力量を感じた。


DSC_4075.jpg



売り子は楽な仕事ではない。
彼女たちはより多く売るための努力をしている。

ビールと言う戦場で戦うのであれば、それはAKB48に所属するのと同じくらい競争が激しい。
1位の子は間違いなく大島優子だし、2位の子はまゆゆだ。
ビール以外の商品であれば、物によってはご当地アイドルの中で戦うという感じだ。
(決してビール以外が悪いと言っているわけではない。自分の意思で担当を決められない場合がほとんだから)

自分のファンを付け、より多く買ってもらう。その結果が順位として表れる。

上位にいる子たちは上位である理由があり、下位の子はそれを破る実力を付けるか、就職をして卒業していく先輩たちの穴を取るかしかない。

売り子の経験はさぞかし就職活動に役立つだろうなぁ(特に関西圏であれば)と、もう今となっては出来ない売り子に様々な思いを馳せるアラサーの私なのでした。




たかしま まりお

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美談のない箱根ランナー

今回の取材対象は、恩師である。

私がバレーボールにすべてを捧げた高校時代の恩師、博多女子高校バレーボール部の入江利昭監督である。


ただ今回はバレーボールについて書くつもりはない。
タイトルを見て分かるように、「監督」「恩師」と言うワードはない。


私の高校のバレー部の監督は、元箱根ランナーなのだ。

もちろん、高校生の頃は、その偉大さを知りもしない。

私のチームは正月も合宿を行うので、箱根駅伝はいつも移動用のバスで見ていた(見させられていた)。先生の出身は順天堂大学。もちろん名門校だ。順天堂の成績が良くないと(多分当時の思い込みだが)練習が厳しくなるというような影響が出た記憶がある。
先生は箱根駅伝のエピソードとして、「先生が1年生のとき、メンバーに選ばれなかった4年生が涙を流しながらマッサージをしてくれた」という話をよくしていた。お前たちにその気持ちが分かるか、というような説教につながったように覚えている。

とにかく当時は「箱根駅伝」の話題は嫌いだった。


高校を卒業して12年、先生と向かい合って話すことは一度もなかった。
後輩の試合を見に行ったときに挨拶をして、少し話をしたが、改まって話を聞いたのはこの取材が初めてだ。

母校の校舎へ行き、応接室で先生と向かい合って座る。
ワクワクもするし、ドキドキもする。何を話そう、何を聞こう。

私の仕事については、私が載っている新聞記事を見たことがあるようで先生は知っていた。
「結婚の報告かと思った」とも言われたが、先生に“取材として”箱根駅伝についてお話を聞きたいと伝えると

「俺には話せることはないぞ」

と言われ、のっけからバリアを張られたと感じた。きっと箱根を走った人たちはいつも同じような質問をされ、話すのに飽きちゃったんだろう、大したことないと謙遜しているのだろうと思ったので怯まずに返した。

「私は走る男女子部という番組のロケで、箱根路を走りました。本当に過酷で大変でした。長距離を走るようになって箱根ランナーの凄さを知ったんです。今では箱根の大ファンです。だから聞かせて下さい」と。

それでも先生は乗り気ではなかった。「俺は走ることが嫌いだ」とも言った。
そして「お前がイメージしているような美談はないぞ」と言い切った。

そんな様子だったが、先生の歴史を紐解くように、半ば強引に質問を投げかけて行った。



「先生」と書くとややこしくなるので、先生のことを「彼」と表現することをお許しください。


*****


彼は中学時代、100・200mを専門とする短距離選手で、100mで11秒3の記録を持っていた。
そして、高校駅伝で優勝した実績を持つ大濠高校に進学する(私は、大濠が陸上が強かったということは全く知らなかった)。彼の同級生には全国でトップクラスの選手が2~3人いたという。当然彼は短距離を専門にするつもりだったろうが、大濠で行われた長距離の大会で彼の走りを見たことのあった駅伝部の先生から長距離を勧められ、何の気なしに入部した。

入学して最初のタイムトライアルで5000mを走った。20人ほど部員がいたが、ひとつ前の順位の選手と1周遅れで、つまりダントツのドベでゴールをするという屈辱を味わった。
その時の様子を彼はこう話した。

-走りだしてすぐは、斜め下を見て走っていると前にたくさんの足が見えた。なのに、すぐに見えなくなった。「ヤバいぞ!」と思ってスピードを上げて走っていたつもりなのに、しばらくたつと、後ろからドッドッと足音と共に荒い息遣いが聞こえてくる。何だ!?と思って後ろを振り返ると、もう先頭に抜かれていた。「うわー!全員に抜かれる」と思った時にはまた全員の足が目の前を通り過ぎていった・・・


さすがにその状況はまずいと思って、家から20キロ近くある距離を走ったり、自転車に乗ったりして登校した。電車に乗る時はつま先立ちをしてトレーニングに勤しんだ。ただ、朝走って登校することは禁じられていたので、先輩が朝の練習に来るかなり前には学校に着いて、着替えて、何食わぬ顔でもう一度登校していた。

そして3か月後にまたタイムトライアルが行われた。
彼は、前回と同様に前に足が全く見えず、後ろから息遣いが聞こえていたので、「抜かれる~!!」と思って必死で走っていた。しかし、ゴールをしてみると何と1番だったのだ。
その後、延岡で行われた大会に出場することとなった。その大会では、あの有名な宋兄弟が1位、2位で、大濠高校の先輩が3位、彼は4位に入賞し、徐々に頭角を現すこととなる。
その年の高校駅伝県予選では1年生ながらアンカーに選ばれた。当時大濠高校は県では無敵であり、前年度は全国で優勝した強豪チームであった(1969年20回大会で大濠は全国優勝)。前年のメンバーも4人残っていたので、アンカーになった彼には優勝しか頭になく、ゴールテープを切る練習ばかりしていた。しかし、いざレースが始まると、前年メンバーは調子が出ず、約150m遅れでタスキが回ってきて、結局追いつくことは出来ず勝てなかった。県予選で敗退した大濠高校は、京都へ優勝旗を返しに行かねばならなかった。その時、監督が「悔しさを覚えておけ」と1年生である彼と同級生の2人で優勝旗を返しに行かせた。

実は、2度目のタイムトライアルの後、彼はほとんど練習をしなかった。つまりサボっていたのだ。しかし、大会前の調整だけで5000mでは県で負けなかったという。

大濠高校を卒業後、順天堂大学に進学することとなる。全国的に有名な陸上の強豪校であるが、彼は順大がそこまで強いとは知らなかった。話があったから行った、それだけのことだった。
しかし、いざ入学してみると日本ランキングトップの選手がゴロゴロいた。県では無敵だった彼も、同級生や先輩と比べた時、ランキングだと後ろから数えたほうが早かった。
順天堂大は、いわゆる「エリート集団」であった。当時インカレでは連覇しており、ユニバーシアードやオリンピックに選ばれるような選手もたくさんいた。1学年の全生徒の約3分の1が陸上部で、そのうち6割は各種目の高校ランキングで10位以内の有名選手ばかりであった。個人として日本選手権に出るよりも、順天堂大学の代表として、順天堂大学のユニフォームを着て、インカレや箱根に出ることのほうが難しかった。それくらい、順天堂大のユニフォームを着ると言うことには重みがあった。

そんなメンバーばかりだったから、高校では手を抜いていた彼もさすがに頑張らなきゃいけないと思い練習もちゃんと取り組んだ。その成果も現れ、当時行われていた東京-青森間や東京-新潟間駅伝の千葉県代表メンバーに選ばれ、部内でも認められるようになった。

そして、彼にとっての初の箱根駅伝(第50回大会)がやってきた。1年生ながらメンバーに選ばれ、3区(戸塚~平塚間)を走った。チームとしては総合で3位であった。2年生では6区に選ばれ、山下りも経験した。区間では6位で、総合では2位であった。3年生の時、膝を悪くしていたので出場は厳しいかと思われたが、インカレの標準記録が出ていたので、8区のメンバーとして平塚~戸塚を区間6位で走った。総合では5位となった。


ここへきて私は困った。困ったと言うか、何か足りないと感じた。

箱根駅伝の話が軽すぎる。私は、先生の実績を知りたいのではなく、その中身を知りたかった。
どれだけ血の吐くような努力をして、自分自身や仲間との間に葛藤があって、こんなアクシデントがあって、そしてこういう結果になった、とストーリーが欲しかった。でも彼からはそんな話は一つも出てこなかった。

むしろ彼は、大学時代にキツい練習をしていないと言う。ほとんどケガをしていて(していることにして…?)、練習をしていないし、苦しい・つらい・きつい練習もやった記憶がないと言う。合宿でも散歩かジョギングしかしていない、と…。もちろん他のメンバーはとても真面目だったそうだ。(彼の同級生には、日本代表の木崎良子さんの父、木崎和夫さんがいて4年連続で箱根を走っている)

それでも彼はメンバーに選ばれ、箱根を3回走った。

1年生の時には、メンバーに漏れた4年生がマッサージしてくれた。気持ちよくて眠たくなったときに背中にポタポタ何かが落ちてくるのを感じた。先輩が汗をかくくらい一生懸命やってくれているんだと思い、そっと見てみると、涙を流しながらマッサージしてくれていた。起きるに起き上がれず、ひたすら寝たふりをしていた。
また、4年生に冗談で「朝ごはん○○が食べたいなぁ」と言うと、そのメニューを用意してくれていた。「すいません!」と彼が謝ると「ええよ。頑張ってくれたらいいから」と言われた。メンバーが決まった後は、何をするにも、どこへ行くにもメンバー外の先輩が準備してくれて、サポートしてくれていたのだ。
そして、箱根が終わった後の打ち上げの時に、先輩たちが「俺は走りたかった!!」とワンワン泣くのを見るのが堪らなかったと言う。

そして彼は最終学年である4年生を迎える。
しかし3年生の箱根でケガを持って走った代償は大きく、その後膝の手術をし、4年生で走ることは絶望的だった。留年をして、治療をするという選択肢もあったが、家庭の事情もあり進級した。
驚くことに監督は、走ることができない彼をキャプテンに任命した。


走れない彼は、自分が4年生でキャプテンでありながら1年生のマッサージをしなければいけなかった。



そこで初めて、彼は今までに感じることのなかった気持ちを味わった。


自分はなんてバカだったんだろう。
当たり前と思っていたことが当たり前じゃなかった。
みんなこうやって苦労していたのだ。
4年間これ(選手のサポート)だけをして卒業する人もいる。


「ここが俺の原点だ」


そのことに気付いた彼は4年生の時、今まで自分がしてもらったこと全てを後輩にした。

箱根が終わった後の納会では、キャプテンではあったが、雛段に立つ15人の選手の一番後ろの一番端っこに立っていた。ただ、立っているだけであった。


「負けるってこういうことなんだ。だから、負けたらいけない」


だから箱根を走った人は負けたくないという思いが強くなるのだ、と。



*****



いくら聞いても先生には、テレビで特集されるほどの美談はなかった。
箱根に関しては“頑張っていないから”あまり言ってほしくないという先生の気持ちも察した。


しかし、ゆるぎない信念があった。

先生は練習をしていなかったことを認めているが、メンバーに選ばれる自信もあった。

「みんな頑張っているのは同じ。土俵はひとつしかない。努力は大切だし、それを認めてくれる人はいるかもしれない。だが、結果は勝つか負けるかだけ。勝負が出来るかということ。この時、この時、というチャンスが訪れているときに活かせなかったら頑張っても意味がない。美談にはなっても、結果はダメだったということに変わりはない。箱根を走れたか走れなかったかは明らかな結果だから。そういう意味では4年生のときは負けたのだ」と。


先生の話を聞いていると、箱根駅伝の別の側面が見えたようにも感じた。
もしかしたら、先生のように、そこまで大きな思い入れがなく箱根を走っているランナーも(多くはないだろうが)いるのかもしれない。それにスポットライトの当たらないランナーの方が多いのも事実だ。
箱根駅伝は、今でこそテレビもラジオも追いかけ、特番までもが何度もあり、とても大きな大学の宣伝効果になっている。大学側の力の入れ方も大きいし、長距離ランナーにとっては憧れの存在となっている。
しかし当時は、ラジオ放送しか行われておらず、西日本出身の陸上部には箱根を知らない選手もいたそうだ。先生はそういう時代に、何となく速くて何となく箱根を走った。そして、今の時代となって、周りからスゴイと称賛される。はじめはピンと来なかったが周りから言われてその価値を実感するようになったそうだ。先生にとって箱根駅伝は、お酒を飲みながら話す過去の懐かしい話でしかない。

では先生はなぜ、あんなに箱根駅伝を一生懸命見ていたのだろうか?
答えは簡単であった。母校を愛しているから。誇りと自信を持っているから。誰が速いとか注目されているとかはに興味はなく、シード圏内に入ってくれたらまた来年も母校が見れるのが嬉しいから、それで見ているのだ。


私は陸上選手と言うのは(特に箱根を走るような選手は)、自分にひたすら厳しく、追い込んで追い込んで、倒れるまで走っているものだと思っていた。
だが先生は違っていた。実際にサボっていたし、嫌だ、嫌だといつも思いながら走っていた。裏を返せば本当につらいと思ったことはなかったのかもしれないと言う。周りはそう思っていたかもしれないが、先生にとっては許容範囲だったということになる。
つらかったその時を過ぎてしまえばそれは過去であり、そのことを考えてもどうしようもない。過去をひきずってまだ起きてもないことを心配する必要はないし、不安になるのは自分がやっていないからだと、私に説教しているようにも聞こえた。


つまり先生は過去を引きずらない人生を送っているらしい。


「俺は楽観的なのかな?生徒には違うこと言うけどね。」


・・・分かったような分からないような気持ちであった。



最後に先生に聞いてみた。


-もっとやっておけば、上にいけたと思いますか?

上に行けたかもしれない。でも当時はこれでいいやと思っていた。
自分がした「努力」は選手(メンバー)になるまでの努力であって、一番になった途端にやめてしまった。だから抜かれたし、俺はそこまでだったってことだ。


先生が私たちに教えてくれていたのは、自分自身が経験したこと全てだった。
やはり努力は続けなきゃダメだということ、そして過去ではなく前(未来)を見なければいけないということを教えてくれていた。


先生とたくさん話をした。
先生に当時怒られた(教わった)ことの本当の意味が分かった気がした。

先生にはとても感謝している。
先生がいなければ今の自分はない。
バレーボールを通じて出会った仲間と経験できた全てのことは今でもかけがえがないものだ。
そしてその全てが今につながっている。

私も先生と同じように母校をもっと誇りに思い、応援しなければと思った。
そして博多女子高校の卒業生として、バレーボール部のOGとして、輝いていなければいけないと心から思った。


たかしま まりお

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我らの永遠のスター

今回の取材対象は、バレーボールで知り合った小学校からの友達。

一緒のチームでプレーをすることはなかったけど、選抜合宿などで一緒に練習したこともあった。彼女はライバルチームの中心選手であり、そして誰もが憧れるスターだった。

彼女の名は宮下樹理(旧姓・佐田)さん。今は結婚して4歳の娘さんがいるママだ。

私が取材ブログを始めるにあたって、「誰に会って話を聞きたいか」と考えた時にいち早くリストに上がった人物。ただ、ゴールデンウィークの帰省中に会う予定はいれていなかった。
今回の帰省では、同じ高校で共にバレーボールを追いかけ、寮生活を送った家族のような友達と会うことにしていた。もちろん取材としてではなく、同窓会的な感覚で。その友達と会って話をしていると、樹理ちゃんの話になった(以降、彼女と書く)。2人ともFacebookでつながっていたので、近況もある程度知っていた。彼女は今、自宅でYOSAと言うサロンを開いている。YOSAが何だかよく分からないが、行ってみたいと2人とも思っていた。そしてごく自然な流れで、佐賀にいる彼女に会いに行くことになった。
福岡から佐賀の鳥栖市まで車で1時間ほど。友達と思い出話をしながらドライブしていたら、友達からも面白い話が聞けたが、これは別で書くとする。

彼女は自宅の一室をサロンとして使用している。私自身30年生きてきた中で、色んなエステやマッサージを経験してきたが、話を聞いた感じでは、韓国のよもぎ蒸しに似ていると思った。どこがつらいか、改善したいかのカウンセリングを受け、いよいよ施術のスタート。専用のウエアを着て、チタニウムエッヂと呼ばれる石のような器具を使って軽くマッサージを受ける。その後、ケープを着用して、椅子の下部からハーブの蒸気が出てくるYOSAチェアと呼ばれる椅子に座って、しばらく経つと汗が出てくる。随時、水素水で水分を補給し、また汗をかきの繰り返しで約1時間。人によって向き不向きもあろうが、身体を温め、汗をかくことは気持ちが良かった。YOSAはハーブの蒸気で身体を芯から温め、新陳代謝を促進することで健康となることを目的とする健康法のようだ。


こんな感じでした。
DSC_3467.jpg

サロンはこんな雰囲気。
DSC_3461.jpg

YOSAとは…http://www.yosapark.co.jp/


私はYOSAが何か、どのような効果があるかの興味もあったが、それ以上に、彼女がどうしてサロン経営を始めるに至ったか、それまでの道のりに興味があった。

彼女はプロのバレーボールプレーヤーだったのだ。熊本にあるバレー名門高校を卒業して、JTマーベラスに入団した。先にも述べたが、彼女のプレーはテクニックがあり、知的でクール、見た目もきれいで華がある、同世代から見てもスター選手だった。そんなスター選手でも実業団に入ればそれ以上の選手がゴロゴロいる。アタックもレシーブもサーブも上手にこなす彼女だったが、レギュラーを勝ち取ることができなかった。試合に出れない悔しさ、交代選手として出るプレッシャーの重さが大きくなり、精神的に追い込まれるまでになった。彼女は当時自分は弱かったと振り返るが、そのような苦難を味わいながらプロスポーツ選手として活動している人は山ほどいる。そのほとんどの人がひっそりと引退していくのだ。
4年でJTを引退して、当時付き合っていた人との結婚も考えていた。
しかし相手もプロバレーボール選手(JTサンダース)だった。彼女の性格をよく知る彼は、
「このままの気持ちで辞めたら、後で絶対にやりたいというに決まっている。辞めた後にもっとやりたかった、もっと出来たのにと言ってほしくなかった」
とJTを辞めた直後に来た日立佐和リヴァーレからのオファーを受けるように勧めた。彼女はプロポーズをしてくれるかと思っていたのに、バレーを続けろと言われ拍子抜けしたが、確かにこのまま辞めたら負け犬になってしまう、そう思って決意した。それに日立佐和にはついていきたいと思える監督もいた。日立佐和ではキャプテンとしてチームを引っ張り、また輝きを取り戻した。1年半経った頃、監督がチームを去ることになり、一緒に引退した。JTの時と違い、思い残すことのない、やりきったと思える引退だった。

そして満を持して(?)彼のいる広島へ移り、結婚することとなった。プロポーズのエピソードも聞いた。まだ彼女がJTにいた頃の話だが、デートで出雲大社に出かける道すがら、「結婚式では白無垢を着てほしい」と言われたそうだ。これは普通ならプロポーズと気付くだろう。しかし彼女は白無垢が何かも知らず、出雲大社が縁結びの神様とも知らなかった。だから意味が分からず、気付かなかったと言う。バレー一筋に頑張ってきた彼女の無知を許してほしい(笑)。天才的なプレーヤーにはたまにこういうちょっと抜けたタイプがいるものだ。

結婚して子供が産まれ、子育てが落ち着いた頃、働くことを考えたが、、本当にやりたいと思えることをやりたかった。人助けや人の喜ぶことがしたいと思っていたから、治療院ができたらとも考えていた。
と言うのも、現役時代、とてもお世話になった整体の先生がおり、その人にケガの治療や病気の発見など何度も助けられ、影響を大きく受けたからだそうだ。私も治療を受けたことがある、とても有名な先生だ。彼女はその先生から「バレーを辞めても人が喜ぶ仕事をしなさい」と言われた。「ファンや子供があなたのプレーを見て、バレーを頑張ろうとか、勇気をもらえたと思ったとしたら、それは人助けをしていることだ。バレーを辞めても、人が喜んで笑顔になる仕事をしなさい、そうすれば自分も幸せになれるから」と教えてくれた。
そういう仕事を探していると、ご主人の知人からYOSAを伝え聞くこととなる。体験してみると、彼女が悩んでいた喘息や鞭打ちの症状が治り、これだったら自分も周りの人に出来る人助けだと思った。
いつでも、誰とでも、子供連れでも、気軽に来てほしい、そして体験してほしいと彼女は言う。
自分自身が母親となり思うことは、家族の太陽であるべき母という存在が疲れていたら、家族も疲れて暗くなってしまう。女性は肌がきれいに変わったら、化粧が変わり、着る服が変わる。着る服が変わったら、出かける場所が変わり、付き合う人が変わる良い循環が生まれる。お母さんが月に一回でもいいから、来ると元気になれる駆け込み寺のような場所をつくりたい、と考えている。

そんな彼女に今の夢を聞くと、まずは家族の幸せが一番、それから自分に関わった人が健康でハッピーに過ごせることだと言う。YOSAを通じて、現代人が抱える病気をなくし、皆が集まれる場所を作りたい、そう強く願っている。現在、近隣の主婦から遠方からのお客さん、選手時代のファンの方までお店に来てくれるそうだ。たくさんある店舗の中で自分のお店に来てくれる人を大切にしたいと言う。実際に私も彼女がお店をやっていると知らなければ、会いに行って話を聞きたいと思わなかっただろう。彼女はYOSAを通して、これまでに培ってきたつながりや縁を再び強くすることが出来たのだ。

彼女は言った。

人生で2つも夢中になれるものを見つけることが出来た。それって本当にすごいこと。

大好きなバレーを生業として、満足が行くまでプレーした。
そして引退してからYOSAという夢中になれるものをもうひとつ見つけた。

愛する家族と同じように、一緒に一生歩いて行ける仕事を見つけたのだ。
生き生きと話す樹理ちゃんは、プレーヤーの時と同じようにやっぱりスターに見えた。

DSC_3482.jpg
彼女が運営するのは、YOSA PARK 樹(いつき)
Facebookページ:http://www.facebook.com/yosa.itsuki


たかしま まりお
プロフィール

まりお

Author:まりお
「“フリ”ライター」高島まりおです。

気になる方へインタビューし、記事を書いていきます。
その他、面白いこと、楽しいこと、興味あることを中心に、綴っていきます。

月一でインタビューイベントを開催しています!
「フリライターまりおの取材してるふり。」

イベントと記事(ブログ)連動していますので、こちらも是非チェックをお願いします。


目指すは…Sex And The Cityのキャリーブラッドショー!

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