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髪を結うように縁を結う人(音楽プロダクション代表 中澤樹理)

今回の取材対象は、音楽プロダクション「J-collection」代表 中澤樹理さん

 少し失礼かもしれないが、中澤さんには、まさしく「駆け出し」という言葉が当てはまる。
2015年4月8日に音楽プロダクションJ-collection(以下Jコレ)を設立。そもそもJコレ設立は自分の人生の計画になかったと言う。生まれは高知、土佐っ子である。

 高校を出て大阪の美容学校に進学。卒業後は同学校で美容職に就くことになった。一時期は美容の仕事を離れていたが、再びその世界に舞い戻るために選んだ場所は北新地のセットサロンだった。いわゆる、ホステスの髪をセットする仕事である。
 ホステスとは基本的には美しくあることが求められる職業であるから、こだわりも強かったそうだ。いつもと1ミリでも大きさが違うと「直して」と指示が入る。一番神経を使うのは、ママさんである。新人が髪を触ることを嫌がる方が多く、セットに入ろうとすると「触らんといて」と言われるそうだ。しかし中澤さんは諦めなかった。他のホステスさんをセットしているところを見せ、どうしても時間がない時に担当して少しずつ信用を得るために必死で働いていると、ある時、ママ自ら「やって」と頼んでくれた。この認めてくれる瞬間がやりがいにも繋がっていたそうだ。

 5年ほどセットサロンで働いていた中で、仕事の幅を広げようとフリーでも動き出し、とある芸能事務所でヘアメイクの仕事をすることになった。新しい環境と仕事にも慣れてきた頃、事務所内で大きな問題が起こった。代表以外の関係者が、方向性の違いにより全員離れる事になってしまったのである。もちろん所属アーティストは残ったまま。中澤さんはアーティスト達のために講師を手配したり、レッスンを見たり、ヘアメイクの仕事の領域をはるかに超えていたが必死で動いた。1年ほどその状態が続いたが、遂に事務所を離れることを決めた。

 中澤さんが言うには、この出来事は「導き」であった。「運命のイタズラ」という表現もしていた。ただ目の前にいる未来ある若きアーティストをどうにかしてあげたいという思いから、2日後にはJコレを立ち上げていた。そんな状態で始まったので、まさに見切り発車で駆け出したと言える。
 もちろん何をしたらいいのかも分からない。しかし不思議なことに、「縁」を大切にし、気持ちで動いていく中で、音楽プロデューサーやレッスン講師など第一線で活躍している方に力を借りることができ、徐々に支援者も増えて、体制が整えることができたそうだ。

『私は“動く”ことと“出会う”ことはできる』

と言う中澤さんは、ライブハウスを紹介してもらったり、人と会う機会を増やしたりして、とにかく精力的に活動している。

『そういう意識でいると常にアンテナが立つので、普段だったら行かないような場所が気になって足を踏み入れたんです。そしたらそこに音楽関係者がいたことがありましたね』これも「導き」の一つであろう。

自身が「知らない」ということを素直に認め、「自分に出来ること」と「周りにやってもらうこと」を明確にした上で行動しているからこそ、うまく進んでいるように見えた。

『自分と関わってきて下さった方で、どれくらいのことができるかを楽しんでいこうという感じですね。これから先は色んな方に協力してもらいながら、模索していこうと思います』と中澤さんは言う。

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 しかし私にはここでどうにも解決できない疑問が浮かんだ。

-なぜ、そんなに、都合よく、関係者に出会うのか・・・?

 音楽に精通していたわけでもなく、自身もそこまで興味があったわけでもないのに、楽曲提供をしてくれる作曲家や、講師としてプロのダンサーやボイストレーナーに出会うものなのだろうか?

 聞いてみると、ビックリするくらい軽い答えが返ってきた。

『道歩けば人に出会うっていうノリですね』

 そして、この業界に携わることになったきっかけは、「天六(天神橋筋六丁目)を歩いたこと」だと言い出したのだ。
 ある日の夕方、中澤さんが天六を歩いていたらアメリカ人に「僕の英会話教室に来ないか」と勧誘された(それはおそらくナンパだと思うが)。それから何度かそのアメリカ人と会い、友達になった。彼は日本に来た理由を「僕はこういうことがしたい」と、あるDVDを見せてくれた。それは「質問型営業」という教材(日本製)で、その中で講師をしている男性の風貌がやけに印象に残っていた。
 しばらくして、知人が紹介してくれたセミナーはなぜか聞いたことのある内容と見たことのある講師。気になったのでセミナーに行ってみると、アメリカ人が見せてくれたDVDに出演していた講師による、質問型営業のセミナーだったのだ。そこで出会ったのが、先に述べた音楽事務所の代表というわけである。

 つまり、天六でアメリカ人に出会ってDVDを見ていなければセミナーに行くこともなく、事務所の社長に出会うこともなかった。この世界の扉を開いてくれたのは、あのアメリカ人なのだと中澤さんは話す。

 納得いくようないかないような話だが(笑)、中澤さんはどんな小さな出会いでも大切にし、自然と人との縁を繋いでいけるからこそ、思いもよらない状況に置かれても周りのサポートが得られるのではないかと感じた。現に、その質問型営業の講師の方(社長でもある)とは、セミナーをきっかけに親交を深め、可愛がってもらい、とてもお世話になっているそうだ。

 実は、中澤さんは私と同い年であった(お互い独身)。なんだか途中から女子トークのようなノリになっていたことは否定できない。30過ぎの独身女性ともなると、仕事に生きながらも、趣味はきちんとあるものだ。
 中澤さんの趣味は神社巡り。なんとも渋い。ハマりすぎて神社検定を受けるほどにまでなった。おすすめの神社を聞くと、出雲大社から北西に8キロほどのところにある日御碕(ひのみさき)神社。ここにある日沈宮には天照大神が祀られており、「伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん」(伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守る」) と言われている。
 ここに初めて訪れたとき、景観や空気の神々しさとオーラを感じたそうだ。神社は森に囲まれていて、少し低い位置にあるという。またここには、社務所には置いていないため、こちらからお願いしないと買えない砂のお守りがあるという。痛いところに触ると治るとか…?http://matome.naver.jp/odai/2138917736492416501

『神社があるところに歴史があって、手を合わせて「ありがとうございます」とお参りすると感謝する機会も増えますしね。もし将来、何もすることなくなったらボランティアで神社ガイドしてもいいかな』


 縁を大切にして、感謝の気持ちを持つ。


 当たり前のことにように思うが、行動するのは容易くない。ましてやその「縁」が故に、Jコレ設立にまで至るなど私には想像できない。中澤さんからは、「大変だった」「困った」などの苦労話は一切出なかったが、アーティストを抱え、責任を負うことは簡単なことではない。他人の人生をも背負うことになるし、利益を追求することも必要であるから、周りに見せていない苦悩があるのではないかと思う。
 そんな中で、常に縁と感謝を大切にできる中澤さんに対して、同じ女性として、同い年の仲間として、尊敬の念と少しの羨望を抱いた私であった。

 現在もヘアメイクの仕事をしつつ、代表としても動いている中澤さん。髪を結うように、人との縁も結っているように思う。髪の毛にも色や長さ、質の違いがあり、それぞれに適した対応を選び、形にしていくことは難しい。人間なら尚更難しい。しかし、中澤さんはこれまで培った経験と、持ち前の明るさと人柄で、髪も縁もなめらかに結っているのである。


J-collectionは4月8日で1周年を迎える。
大きなライブハウスでイベント開催予定とのことなので、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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J-collection 
HP http://gingerj7days.wix.com/j-collection
Facebookページ https://www.facebook.com/%EF%BC%AA-Collection-352350648291197/

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北斗の拳的 弁護士尾崎博彦


紅鶴の店長、人生さんから今回のゲストを「マンガ好きの弁護士」と紹介されていたが、今回のインタビューのほとんどは「弁護士」としての尾崎博彦先生の顔だった。しかし、トークの後半で突然出た『北斗の拳』の“ある名言”が私の頭から離れず、今回の記事のタイトルとサブタイトルを北斗の拳から頂いて書いてみることにした。名言の本当の意味と、インタビューの内容は若干ズレているかもしれないが、そこは目をつぶって読んで頂きたい。


1)この傷とともに おまえの心を この俺の心に刻もう (ケンシロウ)

弁護士と聞くとまず思い出すのが弁護士バッチである。それを身につけているだけで世間は一目置く。弁護士バッチの正式名称は「弁護士記章」と言い、裏側には弁護士の登録番号が記載されていて、身分証明ともなる。尾崎先生は、そんな大切な弁護士バッチを2度もなくしていたという強者であった。

日弁連のHPによると、『弁護士となる資格を有する者は、入会しようとする弁護士会を通じて、日弁連に弁護士登録を請求し、日弁連に備えた「弁護士名簿」に登録されることによって、弁護士となります。(弁護士法8・9条)また、登録によって弁護士となった者は、弁護士法の規定により登録と同時に当然に日弁連の会員になります。(弁護士法47条)』とある。

各都道府県に弁護士会が1つずつ(東京は3つ)置かれていて、強制加入団体とされている。もちろん入会金・会費が必要だ。最初のバッチは弁護士として日弁連(日本弁護士連合会)に登録されたときに、無料で貸与される。(弁護士登録を抹消する時には返却しなければならないので譲渡ではない)

先生は無くした時、弁護士会に紛失届けを提出した。するとFAXで返信が来て、「今後管理に気をつけるように!」と怒られたそうだ。弁護士バッチの再交付には1万円ほど払わなければならず、それが2回なので2万円の出費をしたことになる。さらにその失態を突きつけられるのは再交付されてからだ。バッチの裏には、登録番号だけではなく、最初なくした時は「再1」、2度目には「再2」と付け足されていた。

無くしたというその事実は、バッチの裏だけではなく、心にも深く刻まれるのだ。


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2)我が生涯に 一片の悔いなし!!! (ラオウ)

尾崎先生は中学生くらいから「弁護士になる」と言っていたが、どんな仕事なのかは分かっていなかったそうだ。周りの人たちがその言葉を聞いて、「弁護士になるなら法学部に行かなきゃいけないよ」と言うので、司法試験に強いと言われている大学へ進学した。しかし、東大や京大に行くような天才的な頭脳を持つ人と比べたら、いくら司法試験に強い大学とは言えレベルが劣っていることに気付いたと言う。

「そんな人たち以外は基本努力です。時間をかけて一生懸命勉強したら司法試験は受かります。覚えたらいいわけですから。スポーツだったらいくら頑張っても才能だから限りがある。でも、司法試験は勉強で積み重ねをしたら何とかなるので、僕にも行けると思いました。いろんな情報を素直に聞いて、やるべきことをやっていたらある程度行けますよ」
そうして先生は25歳の時に、5回目の試験で合格。現在は法科大学院が設けられ、制度も変わっているが、その当時は年に1回の一発勝負であった。先生は大学卒業後大学院へ行き、そこで3年間試験勉強をするという道を選んだ。教授に気に入ってもらい、指導を受けるという要領の良さも発揮した。一応伝えておくが、試験内容は教えてもらっていないとのこと(笑)。

その後、司法修習を受けて、弁護士、裁判官、検察官を選択することとなる。検察官と裁判官は相手側も採用の有無を決められるため、修習生時代の成績が影響すると言う。当時は希望が叶うことが多かったそうだが、現在は人数が増えているため、狭き門となっている。修習が終わったら、国家試験である二回試験(司法修習生考試)を受けるのだが、弁護士の志望者はこの頃には就職先が大抵決まっている。裁判官や検察官になる人は決められた配属先へ行くことになる。

尾崎先生の弁護士人生は、心斎橋にある事務所で始まった。バブルが弾けた後ということもあり、比較的のんびりした事務所だったと言う。駆け出しの頃は事務所から割り振られた様々な仕事をこなした。基本的には一般民事がほとんどで、銀行からの相談にも対応した。与えられる仕事はボスの気分次第であったが、色々な案件に触れたことで経験を積むことができたそうだ。そのボスからいきなり「そろそろ独立せえへん?」と言われた。先生は当時何も考えていなかったそうだが、「そう言われるなら、しようかな」と思って独立した。33歳の頃であった。

そう決めた尾崎先生の生涯に一片の悔いもないはずだ。


3)悪党の泣き声は聞こえんな (ケンシロウ)

尾崎先生が多く対応したのは消費者保護関係だった。今日でもよく聞く、キャッチで騙されたり、訪問販売で高額商品を買わされたり、と言った類のものだ。今では「クーリングオフ」や「マルチ商法」と聞けば、その言葉の意味を理解できる人は多い。しかし当時はその言葉さえほとんど知られていなかった。かつては消費者被害に関する法律は「訪問販売法」と呼ばれていたが、現在は「特定商取引に関する法律」となって訪問販売等を規制している。というのも現代は訪問販売だけではなく、電話やインターネットをはじめ、その方法が多様化しているからだ。
例えば「布団のモニター商法」。高級布団を買って、毎月その使用感や意見を提出するとモニター料が2年間に渡って支払われる。布団は20万以上する高額商品なので、購入の際はクレジットを組むことになるが、モニター料から回せば損することはなく、最終的に儲けが出るという触れ込みだ。しかし、そんな会社は早々と潰れてしまい、クレジットのお金だけが消費者の手元に残ってしまう。この手の大量消費者被害が15年くらい前に全国で多発していたそうだ。
結局、得しているのはクレジット会社で、販売会社と結託して行っているのである。この商法を野放しにすることが出来たのはクレジット会社であり、このローンは支払う必要がないのではないか、と弁護士団を組んで全国で裁判を起こした。大阪だけでも何百人と被害にあった人が押し寄せたという。

「僕はクラブ活動みたいなのが好きだから、弁護士団に入って、ああでもないこうでもないと話していました。事例を弁護団で議論していると、最終的に法律の不備が見つかり、整備されてきた部分はあります。実際に事件も減ってきましたね。」

そういう背景があって、現在、法律が整備され、啓蒙活動も進んだというわけだ。とは言ってもそのような商法は手を変え品を変えて現れ、全てが無くなることはない。私たちも積極的に情報収集し、対策を取っていく必要があると感じた。そこで、どんな人が騙されやすいかを尋ねると、
「割と自分は騙されないと思っている人が引っかかりやすいですね(笑)。あと、年を取ると心が弱くなるというか、精神的な負荷に耐えにくくなるんです。それに中途半端にお金も持っているでしょ(笑)。危ないなと思ったら、僕のところへ来てください。」

尾崎先生はどんな悪党も蹴散らしてくれるに違いない。


4)行くがいい。オレの心はいつも おまえのそばにいる (ケンシロウ)

 もちろん刑事事件も受け持つこともある。尾崎先生は国選弁護人の登録をしており、当番の割り当てがあってその日の18時までに連絡があれば対応しなければならない。(取材の日、17時50分に連絡があったそう)

※国選弁護制度
国選弁護制度とは、刑事事件の被告人(起訴された人)及び被疑者(刑事事件で勾留された人)が、貧困等の理由で自ら弁護人を選任できない場合に、本人の請求又は法律の規定により、裁判所、裁判長又は裁判官が弁護人を選任する制度

平成21年5月に始まった裁判員裁判の事件も対応した。2年ほど前に起きた殺人事件で、被告人の年金を遺族に対して支払うことを約束させた。命は返ってこなくとも、少しでも被害者に対し慰謝するための処置をするのも弁護士の役割だ。殺人未遂に至っては様々なケースがある。飲酒による精神膠着や喧嘩から起こった過剰防衛など、減刑する材料で弁護するが大抵は通らない。しかし、中には本当に冤罪もある。嵌められた可能性もないとは言い切れないため、弁護が重要となる。
痴漢については冤罪も少なくないという。被害者が仕込んでいる場合や単純な間違いということもあるので、神経質になるそうだ。被告人が犯行を認めている場合でも弁護が求められる。被害者側の意見ばかりを聞くのではなく、加害者とされている人の言い分も聞かなければならない。もしかすると痴漢していないかもしれないし、していたとしても、罪を償わせる必要がある。被告人の立場に立った適切な対応が問われる。

刑事事件では弁護人をつけることが義務付けられている。犯罪というのは、社会の観点から見て、その行為が許せるかどうかで刑罰が決まる。つまり、国家が決めるわけだ。極端に言ってしまうと、被害者がどう思うかは二の次であるし、被害者がいない犯罪だってある。被告人とされる人間にも言い分もあるだろうからと弁護人を付けるのが国選弁護制度である。刑事事件である以上、死刑の可能性もある。だからこそ、言い分をきちんと聞く立場の弁護人が必要なのである。
一方、被害者は基本的に被害の回復がしたいと思っている。そのために、自分でやるか、他に窓口を作るかは任意(自分)で決めることができる。被害者が生きている(被害が残っている)、もしくは死亡している場合は残された遺族がどうしたいかというのが問題となる。

「ほとんどの裁判は法律を当てはめてハイ終わり、という形にはならない。ほとんどは和解なんです」
と先生は言う。裁判所の本音を言ってしまうと、『判決は書きたくない』のだそう。お互いの言い分を考慮して、事件を分析した上で、○○だから××と理屈をこねて判決文を書くのは非常に難しいのだと言う。

「お互いの言い分を聞いていると、ここらへんで落ち着けたらどうかな?と別の視点が出てくるんです。どっちの立場だったしても弁護士同士で感覚的に分かって、この辺で手を打ちませんかとなります。こういう場合は理屈がいらないんです。裁判所で和解調書をきちんと作るから、判決と同じ効力があります。そういう形は多いですね。」

弁護士のもとに訪れる相談者には言い分がある。
「『この点とこの点が違って、対立はここですね、ここで歩み寄りができなかったら裁判ですね』と言うように、内容を聞いて、折り合いが付きそうだったら相手方を説得してみましょうという方向で話をします」

尾崎先生は話し合いを一番に考えている。先生の心はいつでも相談者のそばにいるのだ。

また、先生は法律と弁護士の役割をこのように解いてくれた。

「法律というのは、紛争の解決の一つですよね。世の中にはどうしても争いが起こって、それをどういう形で解決するかの方向性が何にもなかったら解決にいたらない。その基準が一応、法律なんです。例えば、赤信号では止まる、青信号は進むというように交通ルールがあるから、事故が起きたときどっちが悪いかを判断できますよね。それと同じで基準がなかったら判断できない。法律があるから絶対に従わないといけないと考えるのではなく、あくまで社会生活を送るに当たっての基準の一つだと思ってほしい。社会のルールが法律です。だけど、交通ルールのように詳しい人も少ないし、どう生かして社会を円滑に進めたらいいのかは分かりにくい。そこを弁護士がやるというわけです。そう考えてもらえたらと思います。」


5)すべては俺たちの気分次第よ! (ダイヤ)

 「マンガ好きの弁護士」と言うことで、どんなジャンルのマンガを読むかを聞いてみた。『課長島耕作』のような大人が読むマンガは「あぁめんどくさ!」と思って読まず、少年マンガを読んでいるとのこと。最近は少しマンガ熱が落ちているそうだが、ずっと読んでいるのは「バキ(刃牙)」だそう。

そして、日本マンガ学会の会員でもある尾崎先生。そこでは、いわゆる「マンガ学」の研究が行われているそうだ。素人目なら「どうでもいい」と思うようなところ、例えばマンガで描かれている線や歴史的な背景、について様々な角度から批評を行っている。先生はもともと著作権の勉強がしたいと思っていたところ、先輩弁護士に「君、マンガ詳しいなぁ」と学会を紹介されマンガにどっぷり浸かり、さらに人が人を呼んで紅鶴に出入りするに至ったのだ。

私自身、弁護士は娯楽に目を向けず、というイメージがあったが、オタクや隠れオタクは結構いるのだそう。
「僕みたいにここまで全面的に趣味を出す人は同世代では少ないけど、若い世代は生きていくのが大変だから、いろいろやっている人もいますよ」
昼間は弁護士をしながらプロのバスケットボールプレーヤーとして活動していたり、何ヶ月に一回は格闘技に出ていたり、もちろん昨今ではテレビに出る人も多いし、弁護士の形が多様化していると言う。

弁護士というのは本質的に儲かる仕事ではないと先生は言う。揉め事を解決してもらえるお金は知れているし、お金がない依頼者も多い。解決しても喜ばれないことだってある。つまり世の中のイメージは良すぎるのである。さらに先生は「モテたかったけど、モテへんかったなぁ!(笑)」と笑いながら怒りながら泣きながら言った。

では、果たして、弁護士の実態は何なのであろうか。試験に何度も挑戦してようやく受かって弁護士になっても、将来を約束された仕事ではない。安定した仕事、儲かる仕事の象徴として見ていたが、そうではなかったようだ。

尾崎先生はこう言った。「弁護士は自分で選べる仕事」だと。

「バリバリの人権派の弁護士として活動する!という人がいれば、とにかく金儲けに走る!という人もいる。この両極端が有り得る。自分の中のスキルをどのように生かしていくかは人それぞれ自由に選べるということ。
極端な話、裁判官や検察官になれば、僕みたいに紅鶴に入り浸ることはできないですよ(笑)。彼らは役所にいて、安定しているから食うのには困らない。だけど、おネエちゃんと遊んだり、マンガ学会に行ったり、ガンダムいいよねーという話を永遠にしたりはできないんです。弁護士をしていたら食うのに困る時も出てくるけども(そうでない人もいるけど)、それを含めて自分の好きなことをできる。それなりに楽しんでやっているからいいかなぁと思っています。
でも、家に帰ったら、『とても弁護士と思えんわ』と嫁と子供に尻を叩かれていますけどね(笑)。」


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明後日を夢見る音楽家


今回のゲストは、もうかれこれ4年以上の付き合いになる音楽家の安井麻人(やすいあさと)さん。

どのような方なのか、ある程度分かっていたはずだが、取材を終えて感じたのは、「よく喋るなぁ」ということ。つまり、こんなに話す安井麻人を私は初めて見たのだった。

それは明確な理由があった。麻人さんはあることに憤りを感じていたからだ。


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(1)職業名「音楽家」について

最初に私は麻人さんに「音楽家とは?」という疑問をぶつけた。
一般的な認識として、音楽家とは「音楽を作る」「楽器を弾く」ことを生業としている人々のことと捉えている人が多いのではなかろうか。麻人さんが後にも紹介する国勢調査の日本標準職業分類によると、音楽家とは「作曲・演奏又は演奏の指揮に従事するものをいう」と説明があり、事例としては、作曲家・編曲家・歌手・ピアニスト・尺八師匠・雅楽囃師などとなっている。

麻人さんは「そもそも音楽って何なんだろうな、と自分自身思うことがよくあるんです」という。そういう感覚を持つ中で「音楽とはこういうものなのではないか?と自分自身で考え、音を聴き、関連書籍を読んだり、音楽の実体験としてコンサートを見たりした結果、例えば今現在、自分の中での音楽はこれなんです、というプレゼンテーションをするのが音楽家なんじゃないかな」と答えた。つまり音楽家の概念を「日常的に音楽について考え、作っている人のこと」だと解釈している。
さらに、「僕は、誰も見向きもしないような事柄や人知れず理解もされずに存在するような音さえも、これも音楽ではないのか?というプレゼンテーションをしたいんです」と付け加えた。「そうやってプレゼンし続けている間に新しい音楽って言うものが生まれてくるというか、広く一般にも認識されてくるんじゃないかな?って」と言う。

彼は音楽を聴くときに、歌詞は頭になく、なんならメロディもほとんど聴いていないという。いったいその音楽は、なにで音楽が成り立っているかを聴いているのだと言う。例えば、あるハーモニーはバイオリンやコントラバスで奏でられているのだが、それぞれの楽器の音色の溶け具合、またそこで奏でられている例えばアコーディオンによるメロディの音量とのバランス、ハーモニーとメロディ、楽器の音色とのミックス感、といったようにだ。そういった音全体に興味と関心があり、そこを聴いているのだそうで、ほとんどの場合、歌詞、歌のメッセージは、その脳内処理においてスルーされているそうだ。
また彼は独学であってもいくつか音楽を作ったり演奏したりしているうちに、誰しも、音楽の在り方(作曲の原理や方程式のようなものや、演奏のコツのようなもの)に気づくのだと言う。アマチュア時代のそういった経験を通じて、さらに「メロディ」と「歌詞」にこだわって作って歌い続けていく人はシンガーソングライターになり、ギターやピアノやサックスなどといった「楽器」と「身体」が一体になったかのように演奏に磨きをかけて行く人はプレーヤー(演奏家)となっていくのではないか、と考えるようになった。

「音楽家」は英語で「musician(ミュージシャン)」であるが、どういうわけか、ここ日本で「ミュージシャン」と言えば「player(演奏家)」という意味に捉えられがちである。本人曰く、音楽家であると自己紹介すると、必ず「ミュージシャンなら楽器は何をやっているんですか?ギターですか?ピアノですか?」といった具合に質問されるのだそうだ。しかし言葉の意味からすれば、演奏する者は「プレイヤー」であり、それは音楽家というよりも演奏家と言うべきだ。ここまで話して、彼は「つまり音楽家というのは、音楽の事そのものについて考え、音楽を作っている人のことなんだ」と。ところが、このような話をしていると「芸術家のようですね」「つまりあなたはアーティストなのですね」と言われることも多いと言う。実際、麻人さんは「芸術としての音楽を作りたい」とも考えているようなのだが、それでは「芸術家」が職業になるのかと言えば、この日本では芸術家、アーティストという職業は存在しないことになっているのだという。

それは『国勢調査』における先述した日本標準職業分類によれば、「芸術家」の項目が見当たらないからなのだそうだ。国勢調査が行われる度に、職業欄から自分の職を選択するわけだが、音楽家や画家の分類はあるのに「芸術家・アーティスト」という欄はないと言う。何故そのような項目がないのか、ハッキリとした理由はわからないのだが、「音楽家」を「作曲家」と「演奏家」に大別することによって、大方職業を分類できる為なのだろう。そこで彼も職業名を考えた末、現在は「音楽家」を選択しているのだそうだ。ちなみに職業分類の中で「音楽家」は、「作曲家」と「演奏家」に大別されているものの、実際に仕事をしてゆく中では、そのどちらも兼任せざるを得ない状況にあるという。ただし職業分類に従って、どちらかと言えば、作曲家(作り手)に近い立ち位置でありながら、ライブやコンサートなどでは演奏も手掛けているとのこと。ただ、サウンドアートと呼べる表現手法では、制作した音楽作品をギャラリーなどに展示する機会もあり、これを「作曲」「演奏」と二分して分類させようとする国勢調査のやり方は理解しかねるという。麻人さんの話を聞くに連れ、こういうところに彼は社会への憤りを感じているのだと私は感じるようになった。


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(2)生い立ちから

麻人さんの生い立ちについて質問すると、そもそもお姉さんの影響からお習い事としてピアノを習い始めることになったのが最初だという。ところが当時の時代は昭和末期。小学生時代には男子がピアノを演奏するなんて女々しいというような児童間での風潮があり、またピアノが弾けるようになる楽しさはあったものの、あくまで習い事としてのピアノのレッスンには、嫌気が差したこともあったとか。
更に小学校時代には地域のジュニアブラスバンドでユーフォニウム(現在はユーフォニアムと言われることが多い)も担当した。ユーフォニウムと言えば今ではTVアニメ『響け!ユーフォニアム』(京都アニメーション)でもメイン楽器として取り上げられ、花形というイメージも強いが、当時はチューバのように目立って大きいわけでもなく、またホルンのように丸く愛らしくもなく、中途半端で不格好に大きめな楽器の形に、目立たない中低域の音色があまり好きになれなかったともいう。それでも今では大好きな楽器のひとつだというから、子供の楽器に対する視線というのは不思議なものだ。

中学に入学して、先のジュニアブラスバンドの先輩と再会したことから、吹奏楽部へ半ば強制的に入部させられたそうだが、当時の麻人さんはジャズのトランペットに関心を持っていたこともあって、担当楽器をトランペットにしてもらうことを条件に入部したそうだ。ここで、麻人さんと共に活動をしているテクノユニットA.C.E.のメンバーでもあり、現在はタンバリン博士として活躍している田島隆氏との出会いがあった。彼との交流を通じながら、シンセサイザーやエレキ楽器を使ったエレクトリック・ジャズやフュージョン、そして電子音楽やテクノの存在を知った。はたまた田島氏が小学生時代に作曲したという曲を聴かせてもらったことから「音楽は自分で作曲できるもの」という認識に至るようにもなった。それまで麻人さんにとって音楽は「聴く」「演奏する」ものであって、「作曲する」ものという考えには至らなかったそうだ。

高校ではこの田島氏の誘いから軽音楽部に入部。その傍らで人数が足らず廃部寸前の吹奏楽部を兼任しつつも、またある同級生の頼みからこれも廃部寸前の文芸部を手伝うようになり、活字の世界も楽しみ始めるようになる。読書を通じて、言葉としての音楽的インテリジェンスがあることを知るようになった。また彼はもともとピアノのレッスンを通じてクラシック音楽に親しんでいたこともあり、自ずとポピュラー音楽よりも理論や思想などで作られることが多いアカデミックな音楽を嗜好しはじめるようになった。

実家から身近な場所で現代音楽や電子音楽を学ぶ為に、大阪芸術大学音楽学科音楽工学コースに入学。在学中は、麻人さんの先輩で、まだ起業したばかりだった株式会社フェイス(近年は日本コロンビア株式会社を買収したことでも知られる)のCEOである平澤創氏のもとから音楽業界でアルバイトを得て、田島氏と共にテクノバンドA.C.E.としても本格的にバンド活動を始め、また作品発表・展覧会などにも出品したりするなど、音楽家としての活動を始めた。大学卒業後は、当時、生活環境学部を準備中で京都大学名誉教授の多田道太郎氏を迎え生活美学研究所を備えた武庫川女子大学大学院家政学部修士課程にて、サウンドスケープやサウンドデザインについても論考した。

大学院を出た後は、パトロンを得て本格的に創作活動に勤しむ「芸術家」になりたかった彼だが、社会は資本主義。パトロンを得られなければ、どこかで収入を得ないと生活できない。つまり、売れる音楽を作るか、換金できる音楽を作るしかない。90年代、空前のインディーズファッションブランドブーム(ビューティビーストやトライベンティなど)の最中、彼は偶然そういったブランドのファッションショーの音楽に携わることになった。また大学時代アルバイトの縁もあり、CM音楽などを手掛けながらお金を得てゆくのだが、やはり本当にやりたいのは現代音楽である。それはこれまで誰も考えたことも、聞いたこともないような最前衛の音楽を作っていく世界であり、前人未到の世界を提示するのが現代音楽の仕事。ヒットチャートとは無縁の世界ではあるが、実は映画やCMなどで使われている音楽は、現代音楽だったりするのだ。


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(3)前衛的音楽について

しかし、日々色んな情報が入ってきて、知れば知るほど何が前衛なのか分からなくなる。ほとんどのことは誰かがすでにやっているし、この情報社会で何も知らずに作ろうとするなんて出来ないのである。アニメにしろ、デザインにしろ、音楽にしろ、もしかしたら二次・三次制作、パクリ、ゴーストライター問題が最前衛という時代なのかもしれない。

彼は「うまくいった」という時はアートとしては面白くないという。見る人にとって分かりやすく、なるほどと言われるものは、現代音楽的には失敗だと考えている。自分がうまくいったと思った時点で前衛でなくなる、と。この考え方は周囲には間違っていると言われることが多いそうだが、では間違っているからと言ってダメなのか、というと、案外そうではないのではないか?とも彼は考える。そういう意味でも、今の音楽家が求めるものは「(ポピュラーからアカデミックまで多くのジャンルと、美術や映画といった多ジャンルにまで精通し、思想と哲学といった深い知性をもちながら、一般大衆に向けた言葉で)説明してくれる人」(批評家)であるのではないか、と更に彼は考えている。
エンターテイメントの世界でもアカデミックの世界でも、作家は、作品の完成や終わりを感覚的な部分で作っているところがあり、その意図を自身では厳密に説明できない。そこで作家に代わり、冷静に作品の価値を見極め、解釈し、哲学的な論法で世間に示唆してくれる存在が必要なのである。
これは「作家」がいて、「批評家」がいて、それを「広める者」(例えばバイヤー)がいて、世の中に作品が流通するという、アートの世界では昔から存在する形態なのだそう。彼はそんな人物が現在の音楽業界にも現れればと願いながらも、180度変わりつつあるアートの世界に、やはり憤りを覚えつつも、また一方では期待感を寄せてもいる。
その変わりつつあるアートのひとつは、YouTubeなどの「やってみた」シリーズからヒントを得られるのはではないか?と思い始めたようだ。

麻人さんは二十歳の時に一度、一切の楽器演奏を止め、そこからは楽器に頼らない別な音楽表現を模索し、音楽制作をしてきたという。この間に音楽はパソコンがあれば制作できる時代となり、そして今やスマホがあれば作れる時代へと変貌した。音楽表現の技術的な問題については機械が底上げをしてくれるようにまでなった。また何かを作ろうとすれば、音楽理論や和声法のようなある種の知識も必要だったものが、マシンのプログラムが向上すればするほど、知識的な問題も必要性が問われなくなってきた。言い換えれば、技術の底上げによって、エンターテイメントな商業音楽であろうと、アカデミックな現代音楽であろうと、誰しもが平等に技術や知識の壁にぶちあたることなく、気軽に音楽を作れるようになった。
しかしその一方では、例えば「こんなことが出来るなんてすごいね!」といった驚きや感嘆のレベル、モチベーションは下がってきているのではないだろうかと、彼は感じてもいるようだ。どれほどうまく美しく綺麗に作られた作品を体験しても、ある種の感動にまで至らないものもあるという。
その反面、アマチュアが手掛けた「やってみた」動画を鑑賞している時に、酷評されているものに出会うことがある。そういったものの中には、たとえその作品がいかに酷評されようとも、作者の「作りたい」という純粋な気持ちや欲求に正直に動いた結果生まれる、ある種の営利に振り回されない「やってみた」がそこには存在していて、これがある種の感嘆の念を引き起こし、感動に至るものもあるのだと言う。こうした作品との出会いをも最前衛の出会いと考えるにも至ったのである。そう考えるにはあまりにも浅はかではないか?と指摘を受けることもあるようだが、技術や知識があまりにも簡単に底上げされたマシンを使っただけの作品を賞賛するのも同じことだと彼は捉える。

ゴッホの絵やランボーの詩のように誰にも理解されなかったものが、理解できる人、説明する人(批評家)が登場した瞬間に莫大なお金で取引される、これがアートの瞬間である。しかしその瞬間、作品は前衛でもなくなる。
今はまだ多くのものが酷評されている「やってみた」ではあるが、そこに哲学的思想的示唆を与えることにより、それがアートの瞬間として生み落とされることになるのは、「やってみた」なのではと彼の考えは行き着いてもいるようだ。


過去の遺産・遺物でありながら、今も新しい世界を生み出そうとしている『現代音楽』を生業とする音楽家、安井麻人は、最前衛の音楽を作り出そうしている。ただしそれは簡単なことではない。真正面からぶつけるだけではなく、時として斜めから、はたまた後ろから、あらゆる角度から追求しようとする。「youtube」に目を向けたり、彼の考える音楽の世界を説明する為に、批評家、評論家の言葉を探してみたり、これまでの枠に捕われない「何か」を追い求めている。音楽家・安井麻人は、明日を越えた「明後日」へ向って、現代音楽の未来を開拓している最中なのではないかと私は感じている。


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3つのカテイを大事にするプロレスラー

 
 今回お話を聞いたのは、プロレスラーの内田祥一さん。

 イベント3回目でようやく私の得意分野であるスポーツと言うカテゴリーにいる方に話を聞くことができる。とは言っても、プロレスを一度も見に行ったことがないばかりか、正直私はプロレスやボクシングなどの格闘技が嫌いである。
どうして憎んでもいない人を殴ったり、蹴ったりできるのであろうか。
どうして痛めつけ合い、相手を倒すことが目的のスポーツに熱狂できるのであろうか。
そう思っていた。そんな疑問を解消してくれるかもしれないと期待していた。

 彼は腰低めにステージに登場した。なんだがイメージと違う。プロレスラーと言うのは少し威張っていると感じるくらい、胸を張って堂々と出てくる姿を想像していた。

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「僕、人見知りなんです」
人見知りのプロレスラーは実際多いという。人見知りなのに人前で戦う?一体、プロレスラーとは何の職業なのであろうか。スポーツマンなのか、格闘家なのか?その問いに彼はこう答えた。

「基本、表現者と思っています」
俳優や芸人と同じジャンルであり、リングというある程度作られた舞台の上で、お客さんに何を伝えたいか、表現したいかが重要だという。『人見知りの表現者』がプロレスを通じて何をしようとしているのだろうか、私はとても楽しみになっていた。

そして、いろんな話を聞いて感じたのは、内田祥一というプロレスラーは3つの「カテイ」を大事にしているということだった。


☆1つ目のカテイ
 
 プロレス団体に入門したのは23歳、決して早い年齢ではない。高校を卒業して大阪に出てきて仕事を始め、生活が落ち着いた頃に「やりたいことをやりたい」と思ったそうだ。
 その思いにはこんな背景がある。小・中学生の時に部活でサッカーや水泳をやっていたが、家の生活が苦しかったため、必要な用品や遠征費などを親にお願いすることができなかった。それが理由でいじめられたこともあり、居づらくなってこっそり辞めてしまった。やりたいことができなったという思いが、もともと好きだったプロレスをやってみようという決断につながった。とはいえ、当時特に体格が良いわけでもなく、体を鍛えていたわけではなく、ケンカが強かったわけでもなかった彼は、記念受験くらいの気持ちで受けた。試験課題の腹筋50回×2セットや腕立て50回×3セット、スクワット500回などは、もちろん出来なかった。が、合格した。彼が言うには、当時人がおらず雑用をする人間がいなかったため、その要員で合格したらしい。

 入門してから、給料はほとんどないが、団体の雑用をしつつ練習をする毎日が始まった。社長の送り迎え、リング準備、掃除、炊事、雑用をこなし、先輩が寝るまでは寝られないという、完全な上下社会の「一番下」となった。先輩からの嫌がらせに腹を立てることもあったが、なんとか乗り越え、デビューを迎えた。今でこそある程度知られているが、デビューが決まる前に、プロレスがエンターテイメントであることを教わった。(つまり筋書きもあると言うこと)最初からとにかく受身の練習が多かったため、不思議に感じていたことの謎が解けた。デビュー戦は道場長が相手であった。もちろん思いっきり負けた。

 彼が最初に所属していた大阪プロレスは一般的にはエンターテイメント性の高い団体だが、タイガーマスクや武藤敬司に代表される華のあるレスラーには特に憧れていなかった。マスクは被らず(団体から被らなくてもいいと言われた)、派手なパフォーマンスもせず、やられてもやられても立ち上がる根性論を押し出した泥臭いスタイルを貫いていた。プロレスの考え方は人それぞれであり、どんなスタイルだったとしても、「みんなが喜んでくれるから」がベースにある。本当に憎しみ合っていたらいい試合にはならない。もちろん技を掛けられたらダメージを受けるが、実は相手の見栄えが良くなるように心がけていて、そこには相手への信頼感があるからこそ。心の中での会話があり、お互いの技量が必要なのだ。プロレスラーによって段取りを詳細に決めるタイプと、フィーリングで行こうというタイプがいるらしい。彼は中間のスタンスを取っていて相手のタイプに合わせていくように心がけている。経験や性格によって、そして対戦することで、その人のタイプは分かってくるそうだ。以前3対3の6人タッグが組まれた試合で、6人中5人が人見知りだった時には、お互いが気を遣いすぎてさすがに微妙な雰囲気になったという。
 
 それから2年ほど大阪プロレスにいたが、大きなケガをしたため団体に迷惑をかけてはいけないと一旦離れ、フリーとして復帰した。彼の得意技はダイビングヘッドバッド。大阪プロレスを離れるきっかけとなった技は皮肉にもこれであった。ケガは承知の上がこの世界。相手に文句を言うこともなければ、恨むこともない。相身互いなのだ。
 現在はダブプロレスに所属し活動をしている。以前チャンピオンとして在籍していたこともあり、フリーの時に使ってくれていた義理がある。また、デビューするときにお世話になったたくさんの人々に、選手生命があるうちに恩返しがしたいと活動を続けている。
 彼は自分の人生の【過程】をプロレスで表現している。
部活を思い切りできなったこと、記念受験のつもりが合格して入門・デビューしたこと、ケガをしてフリーになったこと、すべてが今の内田祥一を作っている。

 『見に来てくれたお子さんや元気のない人が、「元気もらった」とか「やられても向かっていく姿勢に元気が出た」と言ってくれた時、自分の言いたかったことが伝えられたんだなと思って、嬉しい。若い人に向けて、勝ち負けも大事やけど、それに至る過程、諦めずに向かっていくことに価値があるんやで、と伝えることができたらいいなと思っています。』


☆2つ目のカテイ
 
 内田祥一と言う人間は、プロレスだけでは語りつくせない。いろいろ「やらかしている」男である。

 彼は高校卒業後、大阪でバイトや契約社員で生計を立てていた。特に生活が貧窮していたわけではないが、20歳の時にマグロ漁に行くことを決意した。マグロ漁と言えば、借金まみれの人が行って全額返済して帰ってくるイメージがあったので、借金ゼロの自分が行けばとてつもなくお金が貯まるんじゃないか、起業できるんじゃないか、と一攫千金を夢見た。
 しかし彼が行ったのは、近海マグロであった。基本、儲かるのは遠洋マグロで、そのからくりを言うと、1年間ずっと船に乗っているとお金を使わないので貯まるだけだそうだ。一方、近海マグロは2週間に1回の頻度で帰ってくるため、その時にお金を使ってしまう。彼は学生ローンの返済もあったので貯めることが出来なかった。彼が乗った船は本来マグロを釣る漁船じゃなかったこともあり、なかなか釣れなかった。釣れたとしても、ビンチョウマグロは燃料代に消え、キハダマグロで10~30万で儲けにならない。本マグロで200~300万になるが、ほとんど釣れない。途中から辞めたいと思っていたが、船長が王様として君臨する船では、○○が死んだらしいという噂がいつもあったので、なかなか踏み出せなかったし、こっそり逃げ出すのは嫌だった。半年後、遂に行動を起こした。入念な準備の上、夜中に荷物を運び出し、船長と機関長に辞めることを告げた。もちろん承諾されなかったし脅されたが、意思を貫き強引に帰ってきた。
 彼はマグロ漁に行く前に、ある【仮定】を立てていた。

「もしかしたら死ぬかもしれん」、帰ってきたときは「死んでいる」か、「大金持ちになっている」かのどちらかだと。
 なので、家具などは全て友達にあげてから旅立った。家賃だけは払い続けていたため、帰る家はあったが、何もない。1年半、通信業の営業で働き、歩合制で稼いで何とかなった。初めからそっちのほうが稼げていた気もするが、これも彼の過程の一つとなっている。

 その後、入団テストを受けるわけだが、そこにもエピソードがある。彼はテストを受けた後、またこんな仮定を立てた。

「もしプロレスラーになったら、最悪事故で死ぬかもしれん」

 そこでこれまでお世話になった人たちにご馳走をして回ることにした。その当時、酒気帯び運転の取り締まりが厳しくなり始めた頃で、お酒を飲んで原付で帰っていたら、案の定捕まった。警察官に罰金10万円と言われ、なんだか払うのが悔しかった彼は、罰金相当の日数拘置所に入れば帳消しになるという話を聞き、入ることにした。1日5000円の計算で20日間入らなければならないが、前科は付かないという。その拘置所内でトレーニングをして、身体作りが出来るとも考え、一石二鳥の得した気分になっていた。が、実際は勝手なトレーニングなど許されず、運動は週に2回のみ。むしろ体は弱っていった。消灯の時間には「かあさんの歌」(♪かあさんが夜なべをして)が流れ、母親に手袋を編んでもらったことのない彼も自戒の念に駆られたという。
しかも、その拘留中に入団テストの結果発表があり、彼は合格していた。大阪プロレスのHP上には「探しています」と書かれ、尋ね人状態であったので、身体の弱った彼が入門した時には先輩レスラーに「今まで何してたんや」と聞かれる始末であった。

 彼はとにかく「死」を仮定する男である。
 現在、プロレスラーとして戦う傍ら、バーの経営もしている。ある日彼の店のお客さんが同じビルにあるぼったくりバーに引っかかってしまった。高額請求をされ、監禁されているとの連絡が入り、助けに行った。その際、やはり最悪「死ぬ」ことも考えて、もし20分以内に何の連絡もなかったら警察に通報するように知人に頼んで出ていった。よく考えてみたら、プロレスラーであるムキムキの男性が乗り込んで来たら、相手の方が逃げ出すだろうが…。結局、死の危険はなく、警察も来て話し合いとなった。事情聴取で、警察官に職業を聞かれ、「プロレスをやっていますが、収入のほとんどはバーです」と答えると、「じゃあ飲食店勤務ね~」と言われた。少し切なさを感じながらも、こう仮定した。
 
 「もし犯罪を起こしても、プロレスラーとして名前が出ないなら、プロレスに迷惑をかけることがない」と、安心もした。

 これは笑い話でもあるが、プロレス業界でも、芸能界でも当たり前に言えることでもある。「その道で飯を食っていく」ことを、誰しもが最初に目指す。名前が売れていない芸人やタレント、スポーツマン、ダンサー、歌手等は、ほとんどの場合ギャラが安い。プロレスでいうと1試合あたり10,000~15,000円だそうで、毎日戦っても30万程度にしかならない世界。しかも、ケガは当たり前で、命の危険もある。そんな中で戦うプロレスラー達の、言葉にならない(できない)叫びが試合の中に凝縮されている。

 『どの選手にも個性と人生があるので、もし、試合の中にそれぞれの生き様や本質を見ることが出来たとしたら、面白いと思います』と彼は仮定した。


☆3つ目のカテイ
 
 3つのカテイの中で、彼が一番大事にしているものは、間違いなく【家庭】だ。
 
 マスクマンに興味のなかった彼は最近、別の意味でマスクに興味を持ち始めている。プロレスラーは危険な職業であるため、保険に入るには高額を払う必要がある。家庭がある以上、保険は絶対である。もし、マスクを被っていたら、本名を名乗らないため安く保険に入れるのでは、と考えているのだ。1回引退して、マスクマンとして…と家庭のためにプロレスラーとしてのキャリアは厭わない彼の思いは、たぶん正しいはずだ。
 さらにその思いは現在のコスチュームにも表れている。新しいものを作りたいが、4人の子供を養っていて金銭的に苦しいため、「クラウドファンディング」で出資金を募った。5万円出資してくれた人には、特典としてコスチュームのデザイン権を与えるという条件を付けた。結果、全体では10万円ほど集まり、5万円出資してくれた人もいた。その方はアスリートに仕事を斡旋したり、引退後のキャリア支援をしたりする会社をされているそうだ。その方のアイデアで「応援されている感」を出した方がいいと、ズボンに協賛やスポンサーの名前を入れた。加えて、彼は家庭円満を願って、奥さんとお子さんの名前も入れた。喜んでくれるだろうと意気揚々と報告すると、奥さんに

 「個人情報をさらすな!」と一蹴された。

 彼は家庭と言うリングでは負けっぱなしである。しかし、家庭がすべてのエネルギーの源となっていることも確かだ。

 プロレスだけでは生活が苦しく、バーを深夜までやって体力がキツいけど、家庭でも詰められるという四面楚歌の状況をどう打破していくのか。三つのカテイを大事にしながら、これからも内田祥一は戦い続ける。

私はその生き様を見るために、プロレスに行きたいと思った。

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科学教の伝道師

イベント2回目のゲストであり、取材対象である「アニワギはかせ」さん


イベント会場なんば紅鶴のオーナーである、ぶっちょカシワギさんの実のお兄さん(=兄ワギ)で、博士号を持っているのでその名前がついたという。見知った人からは、「お兄ちゃん」とも呼ばれていて、私自身もそう呼んでいる。紅鶴でよく顔を合わせるし、話もしたことはあるが、どんな経歴を持ち、どんな人なのかは案外知らなかった。そこで、Twitter(@a2wagi)をチェックすると、「本職は化学者」と書いてあった。
化学者・・・考えてみると、私の知り合いにはいない。どういう環境で育ち、どういう教育を受け、どういう思考を持つ人が科学者になるのだろう、なれるのだろう、私の頭上にハテナが浮かんだ。


私は人の人生について聞くのが好きだ。どうやって今があるのか。なぜ今ここにいて、この仕事をしているのか。それはおそらく私自身が答えを出せていないからなのかも知れない。もしそのことを聞かれたら、一応の答えは用意している。だけど、しっくりきていないのかもしれない。もしくは理由はもっと他にあるのかもしれない。そんなことを考えながら、アニワギはかせに自身の人生について語ってもらったのである。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『勉強三昧の小学生。トップであるという成功体験』

僕は小学校からものすごく勉強ができました。そのルーツはハッキリしています。実家が学習塾だったんです。父は元々科学の出だったのですが、若いときに起業をして今で言う「ヤンエグ」つまりヤングエグゼグティブ、青年実業家ですね、それになりました。バイクのタイヤパンク防止剤を開発して売り出しました。だけど、大手企業がそこに乗っかってきたり、時代の流れとともにバイクは流行らなくなったりしたこともあって、友達と共同という形で学習塾を始めたのです。
父は僕を一つ上の学年のクラスに放り込みました。小学校3年の時には4年のクラスに、5年の時には6年のクラスに、という風に。僕は常に一番だったし、満点だった。勉強に対する嫌悪感がないと言ったら嘘になりますが、勉強ができるのは単純に嬉しかったのです。子供を勉強させたいと思うなら、とにかく誰かに勝ったという体験をさせることが一番です。一番になった、誰かに勝ったという成功経験があれば、それを維持しようと頑張るのが子供なのですから。


『トップから転落。そこで見えたもの』

僕は中学受験をして、学年8位の成績で私立の中高一貫校に入りました。だけど当時流行っていたゲームボーイに夢中になって、高校1年生のときには下から8位になっていました。それぞれの学校でトップを誇っていた子供たちが集まって優劣をつける社会ですから、勉強をしなければ自ずと成績は落ちていきます。進学校は残酷です。僕はそこで負けたなりの生き方を学べたのだと思います。
とは言っても、さすがに高校2年生ともなると「ヤバイ」と思いだしました。クラスで頭の良い友人にどうやって勉強したらいいか尋ねてみると「テストが終わってから勉強すれば?」と返ってきました。テストでできなかった問題と答えを照らし合わせて、理解できなかったところを分かるようになるまでとことんやると、教科書の中の大事なところは決まっていることに気づきました。僕は敵の見えない広場で闇雲に戦うのは嫌だったので、2年間全ての定期テストで赤点を取ってもいいから、出ると分かっているところを徹底的にマスターすることに決めたのです。その割り切りで、実力テストでの出来だけはいつも良く、クラスメートから不思議がられていました。

僕は学生の頃から科学者志望ではありませんでしたが、もともとベタに図画工作が好きでした。工作は、あるものをつくるにはこんなパーツが必要で、どうやったら簡略化できるかが求められます。完成したものに対して、一番上手く動いたものが良いものという分かりやすい答えがありますよね。絵なんかは描こうとしているもの(モデル)が一番の完成形なのに、それをセンスよく描くことが求められ、評価は先生の好みによるところが大きいのが苦手でした。理屈がつけられないものは嫌いなのです。


『大学での転機。研究の面白さとの出会い』

大学は結果的に科学的なところに行きましたが、僕はどの学部に入っても多分それなりに面白い、なんでも頑張れるからいいや、と思っていました。日本の高校生が抱いている”自分の好きなこと”なんてマヤカシですから。
結局、受かった中で入学金の安い公立大学の応用化学系の学部へ進学しました。大学に行ってからもご多分に洩れず、授業をサボりました。最終的に128単位で卒業したのですが、それは卒業に必要な単位ピッタリでした。いくら160単位取っても同じ卒業。無駄な単位はいらないのです。ギリギリではなくピッタリなのです。
そうやって過ごしていましたが、実は研究室に入る前に転機がありました。3回生の夏休みの時に、「どうにもこうにも大学の勉強が分からない、面白くない。みんなが研究を面白いと言っているのに、自分だけが面白くないわけがないはずなのに」と立ち止まりました。勉強する気を起こすためには研究の面白さを体験しなればと考え、実際に研究でいい思いをしている人の声を聞くべきだと思ったのです。そこで「月刊化学」という生協で売っていた1000円くらいの本を買いました。ここには教科書とは違う”最新の”化学が載っているので、それを知れば興味が持てるだろうと我慢して1年読み続けました。すると、まんまと面白い気がしてきたのです。

実は教科書に載っていることは現状から考えると20年くらい前の研究です。最新の研究をしている最中は、世界中で一刻を争う熾烈な戦いが起こっていて、研究者たちは教科書を作るどころの話ではありません。いい研究テーマという鉱脈が見つかると、そこにたくさんの研究者が群がってきます。いつどこで誰が自分と同じ研究をしているか、発表をしようとしているか分からない疑心暗鬼に駆られながら戦わなければいけない世界です。
現代は大学の先生にはほとんど終身雇用がなく、5年とか7年とかの期限つき契約で雇用されています。その短い間に世界中の見えざる天才たちとの激しい研究闘争を掻い潜り、論文を書き、認められてようやく次の契約に有りつけるのです。そんな天才ばかりの中で戦い続ける大学の先生たちよりキツイ仕事を僕は知りません。

僕は分からないことがあると勉強する気が起きるのです。
「月刊化学」を読んで、世界中の分からないとされていることに対し、こんなアプローチであんな研究がされていて、ここまで明らかになったということを知ることができました。世の中にある分からないことを貯金していこうと、毎月丹念に読んでいると自分の中に引っかかる案件が出てくることに気づきました。そして1年経つとなんとなく世の化学のトレンドとその背景、例えば新しい機械の発明や事件・災害などが起きていたこと、が見えてきて、そうなると自分にも何かできるかも思えてくるのです。
当時僕は「人工光合成」つまり光エネルギーをいかに貯めるか、ということをやらなければと思いました。実際に90年代前半から今までずっと流行っている分野です。日本はもともと資源の少ない国だし、石油枯渇問題もあって、再生可能エネルギーや太陽電池の必要性が取り沙汰されていた時代でした。当然国の予算もそういうところに投入されているので、そこから20年は光エネルギー変換の時代であったと言えますね。


『丁稚奉公と承認欲求』

4回生で研究室が決まって人工光合成に絡む光エネルギー関係のテーマを選んで研究を行いました。研究というのはつまり「丁稚奉公」です。丁稚奉公はキツイですよ。朝9時頃には学校に行って、実験したり、関連論文を探して読んだりして夜9時か10時くらいまで過ごし、ご飯を食べて帰るだけの毎日です。
化学の世界は新しいテーマに移行しにくいので、先生がこれまでに成果を出してきた延長上の仕事をするのです。つまり、どんないいデータを出しても手柄は先生のものです。結局僕は人工光合成に絡むエネルギー関係のテーマを選びましたが、うまくいかず路線変更しました。大学を卒業し、大学院に進学しましたが、あまりテンションの上がらないテーマをやり続けることになりました。ですが、自分のやりたいテーマではなくても、研究は必要であり、世の中の役に立つことだと思っています。何かしら世界へ先駆けて新しいことを行っているという確信はあります。モノを知らない大学生が自分の興味のあるテーマに行き着く可能性なんてかなり低いので、好きではないことも好きになるというルートを選ばなくてはいけないのです。今好きじゃなかったとしても、本気で取り組んでみないと分からないでしょ。だから「自分が楽しいかどうか」に正直になってはいけないと思います。

人間というのはどこまでいっても人に褒められないと嬉しくない、つまり「承認欲求」を持っています。自分が他人に勝てるもの・ところがあることが大事です。承認欲求は定義を拡大することができます。勉強に限らずなんでもそうですが、ちょっと他人より抜きん出ることで褒められる場所が見つかります。それは評価基準を自分が決めるではなく他人に委ねるという諦めでもあります。人は常に何かを失敗して生きていくもの。自分の満足を自分で設定していると、失敗したらその度に自分自身を責めることになり、出来ることは減っていきます。失敗してもいいやという許しをどこかで得ないといけないわけです。それを人の判断に委ね、価値観を広げることが必要なのです。


『無敵の論文マスター、科学者になる』

その後、国立大学の博士課程に進みました。卒業には3年間で最低3本論文を書く必要があります。とにかく研究を一歩でも進めないといけないという不安と焦燥に駆り立てられ、1年のうち5日しか休まなかった年もありました。2年目の終わりに論文を1本書き上げ、3年目の7月に無事3本書き終えたのですが、この頃には論文を書くのが面白くなってきました。残りの8ヶ月でさらに論文8本分のデータを出し、最終的に修了(大学院は卒業ではなく修了)時点で7本の論文を掲載、11本分のデータをまとめました。他の大学からの編入で11本分のデータは尋常ではないと言われていましたが(笑)。でも丁稚奉公ですから、先生の研究テーマがよかったんですね。ただ、この「論文を書く」という作業にはコツというかギアの入れ方があって、これに開眼しない人間はプロにはなれないのだと思います。最初に書いた3本の論文の研究データの中で足りないものが見え、新しいテーマが生まれます。それを潰していくことで、さらにテリトリーが広くなり、この繰り返しで研究は続いていきます。研究者にとって、いいデータが出ることが成功体験であり、麻薬のようであり、追い求め続けることにつながるのです。

無事、博士号を取得し卒業して、科学者になりました。それはつまり公務員です。「科学者」という職業は正確にはないわけですが、「科学者」といえば大学の職員と地方自治体・国の持っている研究所の研究員のことでしょう。企業の研究員は「社員」です。
採用試験では30倍の倍率を勝ち抜いての採用でした。僕には当時、簡単には負けないだろうという「無敵感」がありました。面接で大事なのは、面接官の気持ちが分かる、ということ。企業が採用したいと思う人物を演じることが出来たのです。企業には意図があって、その判断基準の元で採用か否かを決めます。頑張った分だけ、熱意を伝えた分だけ、認めてもらえるなんてことは世の中にはないのです。ただ現実はそうでも、どこかで見てくれている人や評価してくれている人は必ずいると思うことで、割と無敵感が出てくるんですけどね。
現在、私は学校の理科室が大きくなったような研究室で、世の中の人が思う化学者のイメージ通りの例えばフラスコでAとBを混ぜてCを作る、みたいな実験をしています。そうやって役に立つ新しい物質を生み出そうとしています。


『目指す未来。理系思考の伝播』

僕は常に、「あらゆることは論理的に捕らえよう」という切り口でイベントを行っています。「日本の全国民が理系の思考能力を獲得する」ことがゴールです。
そう思うのは、理系の思考を持ったほうが世の中がおもしろく見えると思うからです。ほとんどの人はそのことに気づいていない、気づかされていない、気づかせてもらっていないのです。ここを教育に頼るのではなく、子供を教育するのは親なので、理屈っぽい子供を育てようと思ってもらえるように、これから親になる世代に広めていきたいです。日本を盛り上げるのに一番大切なのは親ですから。

文系の人は、何でもかんでもちょっとわからないことがあると目をつぶったり、「難しい」と言って終わらせたりする悪い癖があると思います。それをすると対策が立てられません。なぜ「難しい」のかを考え、問題を分割してどこから攻めていくか考えていくべきです。難しいといって終わらせることは解決する気がなかったということ。考えられるべきところは人任せにせずに、考えていこうよと言いたいです。極端な話、誰でもイチローになれるのです。彼は神の子ではなくて、努力や環境が上手く作用して、あのような選手になったわけで、本質的には変わらないのですから。
「難しい」というのは日本人病であって、良しとされている言葉、つまり「玉虫色」です。(見方や立場によっていろいろに解釈できるあいまいな表現などをたとえていう意味)日本では建前を取り繕って誰も悪者にせずに終わることは良しとされています。それは、本当は見えるのに見えないことにしていることでもあって、世の中をつまらないものにしていると思います。
難しいことや分からないことが生まれた時に、即座にその場で解決すると賢くなりますよ。やっているうちに調べるスキルもつきます。できなかったら人に聞いてもいいのです。自分ひとりで解決する必要はありません。それが理系の脳につながります。日頃から解決する習慣をつけていくと、どこに行ったら必要な知識があるか、手近な知識を連結させて引っ張ってくる力も確実に身についていきますね。


『科学とは?』

科学は宗教です。この世の中でキリスト教よりも猛威を奮っている宗教です。
みんな、科学的にいつか全て解明されると信じているでしょ。
「科学とは、徹頭徹尾、神の存在を否定するという教義を持った宗教」と言われます。科学は「神がいない教」なのです。科学は神がいないとして、すべてのことを説明できるのかという取り組みを行っていて、今のところほとんど矛盾がなく成功しています。キリスト教・イスラム教・仏教など他の宗教と比べ、はるかに矛盾が少ない宗教ですからね。

布教活動として、科学を啓蒙しているのは会社の外ですね。僕は理系の思考能力を持った人が一人でも多くなるような活動を地道に続け、死ぬときに「日本人は全員理系になったなぁ」と思って死にたいのです。

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プロフィール

まりお

Author:まりお
「“フリ”ライター」高島まりおです。

気になる方へインタビューし、記事を書いていきます。
その他、面白いこと、楽しいこと、興味あることを中心に、綴っていきます。

月一でインタビューイベントを開催しています!
「フリライターまりおの取材してるふり。」

イベントと記事(ブログ)連動していますので、こちらも是非チェックをお願いします。


目指すは…Sex And The Cityのキャリーブラッドショー!

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